怪我
何時ものように部活に遅刻した。
何時も先にコートに入っている男の姿が無かった。
珍しい。
仁王はパワーアンクル入りのリストバンドを両手首に装着しつつ、
傍でぐうたらとストレッチもどきを行っていた一つ下の後輩に声を掛ける。
「赤也。ウチのは?」
生意気に、この自分よりも1.5倍程やる気の無い後輩赤也は視線上方に見える仁王の顔を確認すると嫌そうに、
「ウチの、って…」
うわぁ…と低い声で呟きながら、けれども渋々ではあるが話し始めた。
先輩の言葉は例え赤也であろうと絶対服従なのだ。
「柳先輩と軽く打ち合ってたんスけど、ボール取り損ねてダイビング。そのまま地面に激突。盛大に膝擦っちゃって」
「アホか」
「俺に云わないで下さいよ。んで保健室直行。柳先輩は付き添い」
了解ですかー?と、至極タルそうにこちらを見上げる赤也。
頷こうとした矢先、自分が今一番忌避すべき存在である、鬼より恐ろしい真田の怒号が背中にぶつかった。
「仁王!遅刻するなとあれ程云っただろうが!赤也もストレッチに何時まで時間をかけとるんだ!」
赤也共々数分間説教を聞かされた後、ウザいなあと思いながら、仁王は一人罰として命じられた外周に出ていく。
…フリをしつつ、さっさと校舎裏を回って軌道修正。走る速度を落としてそのまま学校内に侵入した。
副部長の言葉は例え仁王であろうと絶対服従なのだ。
勿論、それはコートの中だけの効力である。
「申し訳ありません、柳くん」
「気にしないでいい。取れない球を打った俺も悪い」
連れだって行ったものの、あいにく職員会議の最中らしく保健医は不在だった。
保健室に来る前に細かな砂利のついた傷口を水道水で洗ってきたのだが、既に柳生の膝からは新たな血が伝い落ちてきている。
とりあえず彼を丸椅子に座らせると、柳はぐるりと薬品棚のある方を見回した。
「ガーゼと消毒と、絆創膏…では覆いきれないな…その傷は」
カチャカチャ、と鍵の掛かっていない、運動部員御用達の応急処置用棚を漁ってはみるのだが、
普段から滅多に保健室を利用した事の無い柳は、なかなか目当ての物品を見付ける事が出来ない。
「…比呂士、消毒の在りかを知っているだろうか」
「あ、ええ…多分その茶色の薬瓶の中に入っているのが…」
ガチャ、
突然回ったドアノブに柳生の視線が自然と向けられる。
そうして先程柳に伝えようとしていた言葉は、
保健室の扉を開け、足を踏み入れた侵入者の出現で、全くその内容を変えてしまった。
「…仁王くん」
「雅治」
片手を軽く上げ、よっ。と怠そうに挨拶をする男の姿が現れた瞬間、柳も少し遅れてその名を呼ぶ。
「柳ぃ、真田から伝言。保健室に柳生を無事送り届けたんならさっさと戻って来いってよ」
もっともらしい表情で、へろりと嘘を吐いた。
真田は仁王と赤也を叱り飛ばしただけで、そんな事は云っていない。
「しかし先生が不在なんだが…」
言葉を続けようとする柳の顔の前で、制するようにひらひらっと片手を揺らす仁王。
「それならだいじょぶ心配ない。後は俺が看るからさ」
な、と振り返って柳生を見るが、言葉を振られた彼はしかし上手く反応する事が出来なかった。
そんな柳生に対し、僅かに肩を竦めた仁王が、じゃそーゆー訳でとか何とか云いながら、柳を保健室から追いやる。
一先ず柳は閉まりつつある扉の隙間から柳生に「お大事に」とだけ云う事に成功したのだった。
「さーて、と。…で、何がどうなってんだって?」
扉を背にしていた仁王が踵を返すと、自分の後ろ髪を指先で弄りながら、丸椅子に座る柳生に近付いた。
対する柳生は彼の姿を、言葉を前にして、動けなくなってしまっている。
警戒心、や、そういう類では、きっと無い。
それは自分でも理解るのだが、動けない。声が出ない。
怖い?
怖い、のかも知れない。
彼の居ない場所で怪我を負ったから?
理解らない。そうかもしれない。違うかもしれない。
無意識にきつく握った掌は、汗でじっとりと濡れ始めていた。
「膝、見して」
けれど仁王は構わず柳生の前に屈み込んで、怪我を負った膝を前に出させる。
生まれつき余り日に焼けない体質の彼の脚は、少し病的な程に、白かった。
「擦っただけか」
「はい」
広範囲に赤く擦れた傷口を数秒間眺めた仁王は、すぐに立ち上がり、手当てに必要な物を棚から手に入れて戻ってくる。
普段から必要以上に(正確には不必要な程)保健室を利用している彼は、棚の中身など既に記憶済みなのだ。
再び柳生の前に、今度は片膝をついて。
「…申し訳ありません」
何を話せば良いか理解らなかったので、一言、詫びる事にした。
「謝るのなんて誰でも出来るんだよ、アホ」
薬瓶の蓋を開け、消毒液を吸った綿球をピンセットを使って患部に押し付けながら、仁王がそっけ無く返事をする。
選んだ選択肢は、どうやら結果として彼の機嫌を損ねるに終わってしまったらしい。
手当てにしてはいささか乱暴なそのやり方に、柳生は痛みで少しだけ眉をしかめ、息を詰めた。
「…っ、」
「俺に、無断で」
オキシフルの、匂い。
白い膝が、その表皮が擦れて赤く腫れてしまっている。
折角綺麗だったのに。
気に入らない。
「怪我とかすんな」
軟膏を塗った柔らかなガーゼで患部を覆い、サージカルテープを十字に貼り付ける。
それを更に固定する為、細やかな網状のサポーターに指を入れて縦横に拡げながら、
「アホ」
憮然とした表情で悪態を吐く。
その言葉を無表情で受けた柳生は、
「すみません」
矢張り、謝るしかなかった。
仁王は無言で、手当ての済んだ膝の表面をするりと撫でる。
この男に傷を付けていいのは自分だけなのだ。
他の誰でも。
柳生自身でもなく。
唯一自分だけ。
それなのに、目を離した隙にこんな怪我しやがって。
「仁王くん?」
「今度、俺の居ない所で勝手に怪我したら」
淡々と。
白い膝を眺めながら。
「殴るからな」
その言葉に込められた意味を、柳生は静かにまばたきを繰り返し、汲み取ろうと試みる。
けれど。
「…仁王くん、それは矛盾しているのでは」
微かに首を傾げ、正直に意見を述べた。
しかし仁王は全く意に介する事無く、一度屈伸した後勢い良く立ち上がった。
「うるせえ。俺が殴るっつったら殴るんだ」
「横暴です」
思わず口に出してしまったが、本当は。
「そう思うんだったらもう怪我すんなよ。ホラ、戻るぞ」
伸ばされる左手。
それを掴む右手。
本当は。
ふらつきながら丸椅子から立ち上がる。
傷を負った膝は熱く、じくじくと疼いて厭な違和感があったけれど。
「…有り難うございます」
返事は無い彼の背中を。
首の後ろで揺れる銀色の後ろ髪を。
瞳で追いながら、想う。
本当は
泣ける程、嬉しかったのだ。
■了■
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仁王のひねくれた独占欲が発動。
こんな感情でも向けられれば柳生は幸せなのでした。