初対面



私はあなたを見つけた。



きりきりと鋭い傷の痛み。
霞んで歪みかけた視界とそれに伴う頭痛に耐えながら、目的の空き教室を探す。
夕刻になり、傾いていく太陽の強い光を直に受けて。
橙から薄紫に染まるがらんとしたそこは、「そこ」には、いつものように誰も居ない筈だった。

…自分の予測では。

入学してからそう日は経っていなかったけれど、広大な学校の地理はその日の内に把握している。
特に何もする事が無かったから覚えてしまっただけで、まさかこんな時に役に立つとは思ってもみなかったのだが。
一年校舎からは正反対の位置に建っている、特別棟の一階の端。
打ち捨てられた教室の、錆びた匂いのする扉に掌を這わせ、そっと開ける。
その際ギギ…と金属を引っ掻くような音が真新しい傷口に響き、少しだけ眉を顰めた。

 「…」

ひとまず、出来るだけ、音を立てないように鞄を机の上に降ろして、「そこ」を見る。
窓際の壁にうず高く積まれた未使用のカーテンに埋もれるように眠っている、自分の予測外の人物、…男だろうか。
眼鏡は割れて使い物にならない為、制服のポケットに無造作に突っ込んである。目を眇めて何とか確認を試みた。…男だ。
使われていないとはいえ随分前からここに放置されたまま山積みになっているカーテンは、日に焼け微かに黄味を帯びていて。
そこで気持ち良さそうに眠っている男(タイの色から判断するにどうやら同級生であるらしい)の髪の毛は、目が醒めるような銀色をしていた。

その突拍子も無く非常識な色は、けれどとても綺麗で。

 「…、」

見惚れるように呆然と立ち尽くす自分は何だかひどく間抜けな感じがしたが、
ここは元々自分も以前から利用していた場所なので、なんとなくすぐには立ち去りにくい。
それにまだ「クラスメイト」達が自分を探しているかもしれない為、迂闊に外に出ていきたくはなかった。

五分程逡巡した結果、結局彼の側にあった椅子に腰掛ける事にする。
音を立てないようにそろそろと鞄から文庫本を取り出し、読みかけのページを捲った、途端。

 「………、ん」

もぞ、
と、衣服がこすれる音にぎくりと心臓が跳ねた。
細心の注意を払ったつもりだったのだが、起こしてしまったのだろうか。
銀色の髪の男はゆっくりとした動きで寝転がったまま、ぐぐ、と猫のような伸びをすると、ふあ…と大きな欠伸をひとつした。
眠たそうな瞳が、こちらをぼんやりと見ている。
少しきつめの、整った顔。
寝起きでも顕著な、切れ長の目許が、やけに印象的だ。
その後、全くの他人でも分かる、物凄く不機嫌そうな表情に変わっていって、

 「…お前、誰」

そう、訊ねられた。
自分が彼の領域を侵してしまった、そんな後ろめたさを一瞬感じてしまったが、それは自分だって同じだ。と、心の中で首を振る。

 「それは、こちらが訊きたいのですが」

視界の稜線がぼやけて、落ち着かない。
彼が今どんな表情を浮かべているか理解らない。背中を伝う不安に、我知らず息を呑んだ。

 「…一年だよなー」
 「あなたもそうお見受け致しましたが」
 「なんでこんなトコにいんの?」
 「それもこちらが訊きたいです」

そこで一旦中断した会話は、目の前で未だだらしなく寝そべっている男の不思議そうな問いで再開された。

 「あと、なんでそんな馬鹿丁寧に喋んの?」

微かに、ひやりと全身の体温が下がる。

 「習慣なんです。お気になさらないで下さい。…気に障ったのなら、申し訳ありません」

何度となく繰り返してきた言葉を、ここでも繰り返す。何の感慨も無いその台詞は、味気なく舌の上を滑っていった。
けれど一部の「クラスメイト」達は、そんな自分の遜った言葉の意味さえ分からず、攻撃を加えようとするのだ。
馬鹿馬鹿しいが、それが現実だった。
彼も笑うのだろうか。「お前はおかしい」と。
見下し、からかい、自分を指さし嘲笑うのだろうか。

少しだけ、緊張する。
そして、緊張している自分に対し、違和感を覚える。

何故、私はこんなにも身構えているのだろう。

 「…や、別に気にしないけど。そういうのは個人の勝手だしな」

ふあぁ…、と気の抜けた欠伸混じりで告げられて、驚く程全身から力が抜けた。

…。
何なのだろう、これは。
この、感情は。

 「…つーかな、お前、誰だか知らねーけど」
 「………、はい。」

返事をするタイミングが遅れて、何だか奇妙な具合になってしまったが、
男は気にする様子も無く云い掛けた言葉も放り出したままで、のろりと立ち上がり、
皺のついたズボンのポケットを探りながら教室から出ていった。

 「………」

…マイペース、な人物なのだろうか。
彼が操る言葉と、その行動。一寸先が見えなくて、とても不安にさせられる。
何も云われないまま置いていかれ、戻ってくる気配も無かったので、帰ろうかとも思ったが、
とりあえずそんなまとまりの無い事を淡々と考えていたら、背後で立て付けの悪い扉が開く、鈍く掠れた音がした。
微かに靴底を引き摺るような、面倒臭そうな歩き方。
振り返ると同時に、くしゃくしゃに乱れてしまっていた髪の、頭の上にぱたりと濡れたものが落ちる。

 「…」
 「プレゼンツ。使用済みだがまあ許せ」

そうのんびりと述べた後、男は呆然と椅子に座っている自分の横を通り過ぎると、再びどさりと乾いた音をたて、カーテンの山に埋もれた。
そっと、頭の上に乗せられたものを手に取ると、それは濡らしたハンカチだった。

 「………あの」
 「左目の下と左頬と唇両端。血が出てる」

カーテンに埋もれている彼の顔は窺えない。

 「………あ」
 「単に俺が見るに耐えねえからだ」

こちらに向けられた背中から声がする。

 「すみません」

どう、反応すればいいか分からなかったので、一言詫びた。
男は寝転がった後ろ姿で微かに首を傾げたが、それ以上何も云わなかった。

ハンカチを、握り締める。

使えない。
こんな汚れた傷にこれは、使えない。

唇を、静かに噛みしめる。
途端、「クラスメイト」達の嘲笑が、さざ波のように頭の中にこだまする。
自分が何を云っても、反抗したとしても、迎える結果は同じだという事に気がついて、
今では無言で、ただ冷静に嵐が過ぎるのを待つ毎日だった。
結局彼らは自分が何をしても気に入らないのだろう。
そう思うと、そんな理不尽に向けられる感情さえも、いっそ清々しかった。
そのうち飽きるだろうし、また新たな標的が出来るまでの辛抱だと、そう思っていた。云い聞かせていた。

ハンカチが冷たい。

けれど。

ずっと、独りで。
平気だと思って。

けれど。

もしかしたら。本当は。
本当は、誰かに。



 「…お名前を、訊いても良いですか?」



優しくされたかったのかも、しれない。



喉から絞り出した声は、言葉は、みっともなく震え、とても頼りなくて、情けなくて。
相手の耳まで届いたかどうかすら不安だったけれど、ふ、と少しだけ長い銀色の後ろ髪が揺れて、眠たそうな瞳がこちらを捉えた。
 
 「におう」

ポツリとそう告げて、再びに眠りに落ちようとしている。
その背中は、なんとなくではあるが、他人からの干渉を避けているように感じた。
そろそろ自分も席を外した方がいいのかもしれない。

 「ハンカチ…ありがとうございます。洗ってお返ししますので」

これだけ云って、取り出し掛けた文庫本を鞄の中にしまい、席を立った。

 「…いーよ別に。あげる」

彼が僅かに動く。
その掠れた衣擦れの音も。
その言葉の一字一句さえも。
心臓が反応する。
一体、自分はどうしてしまったのだろう。

 「…失礼します」

静かに、混乱する。
訳が、分からなくて。
自分で自分が理解出来なくて、怖くなって、気がつけば廊下に出ていた。
そろそろと、人差し指で傷ついた口角を撫でる。



この痛みは、本物。



軽く息を吐いてから、固く握り締めたハンカチを、少しだけ迷ったけれど、そのジクジクと疼く傷口にゆっくりと押しあててみた。



冷たい。
柔らかな。
感触。



この痛みも、本物。



彼が眠っている空き教室の扉に背中をつけて。
静かに、静かに目を閉じた。






この出逢いも、本物。






■了■

 

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柳生が仁王をロックオンした瞬間。