「仁王くん」



自分達が普段使用する校舎から、真逆の方角に位置する特別教室棟の一階。
裏口から入って右に曲がり、数えて五番目の空き教室。
打ち捨てられたそこが、自分と彼を繋ぐ唯一の場所であり空間だった。
壁を指でたどり、軋む廊下を歩きながら、柳生は口の中でとりとめもなく彼の名前を呟く。

 「仁王くん」

この秋から、ダブルスを組んだ。
それなのに、彼は部活を頻繁に休んだ。

予定された練習が出来なくて困っていると部長の幸村に相談を持ちかけたら、
パートナーを探しに行くのもダブルスの務めのひとつだよ、と笑顔で諭された。
それからというもの、柳生の部活動はまず仁王を探す事から始まる。

1、2、3、4、…5。
ようやく目的の教室にたどり着いて、足を止めた。
この向こうにいるであろう彼に呼びかけるべく、留具が錆び付いた扉に軽く握った拳を伸ばす。

 「……ん、…ふふ」

と、中からくぐもった女の声が聴こえた。
一瞬思案した後、けれど結んだ拳をどうする事も出来ず、結局扉を叩く事にした。
この行為が無粋であるという事は、重々承知の上である。

 「仁王くん」

カタ、と生じた軽い物音。椅子がずれたのかもしれない。
柳生は構わず息を吸って、凛とした声でその名を呼び続ける。

 「仁王くん」

しばらくの沈黙。
そして扉の向こうで少しだけ喧噪がしたかと思うと、瞬間ガラッと勢い良く目の前の扉が開いた。
中から出てきたのはくしゃくしゃと皺になった制服を乱雑に着込んだ女子生徒だった。
急いで身につけたのか、それらはまるで身体に合っていない。

 「………」

女子生徒は、正面に立って自分を見定めている無表情の男をきつい眼差しで見返すと、
唇を歪ませ小声で悪態を吐いて、早足で脇をすり抜けていった。直後残り香のように甘い匂いが鼻を掠める。
何を云われたかはいまいち聴き取れなかったけれど、女性が口にするには余りよろしくない言葉だったように思う。
次第に小さくなっていく背中をその場で見送って、ようやく柳生は詰めていた息を吐き、教室の中に視線を戻した。
探していた人物は、散乱し、無造作に置かれている机のひとつに怠そうに乗っかって、物凄く不機嫌な表情で柳生を見ている。

 「仁王くん、探しました」
 「………お前なぁ、それより先に云う事あるだろうがよ」

やや猫背気味の上半身には何も着ておらず、ズボンのベルトのバックルは外れ、そこから下のトランクスが覗いていた。
彼が先程出ていった女子生徒と何をしていたか、なんて一目瞭然だった。この自分にだって分かる。けれども。

 「部活が始まっています。練習時間がもう40分程過ぎています」

ひく、とその時仁王の片側の頬が、微かに引き攣った。
しかし柳生はその変化に気づく事無く、机の上に座っている彼の方へと歩みを進めつつ、
長身を折って床に散らばった制服を拾っていく。こんな風に脱ぎ捨てたら皺が酷くなる、と場違いな事を思いながら。

 「貴方が居ないとダブルスの練習が出来ません」
 「柳生」

苛ついた低音で名を呼ばれ、顔を上げた瞬間伸びてきた腕に髪を鷲掴みにされた。

 「…っ」

突然のその衝撃でガタンッ、と大袈裟な音を立て、傍にあった椅子が真横に倒れる。
思わず手を離してしまった所為で、折角拾った制服は再び床にばらまかれてしまった。
柳生はそれを横目で追うが、乱暴に顔を仁王の方へと向けさせられる。
その度に生じる痛みにも似た鈍い刺激は、熱を持って柳生の精神を浸食していく。

 「部活には行くつもりでした。遅れてどうもすみませんでした。こう云えば満足?」

ぎりぎりと髪を無造作に掴まれる感覚に我慢出来ず、自然その場に膝をつく格好になってしまう。
埃まみれの床がいささか不快だ。柳生は僅かに眉根を寄せながら、レンズ越しに仁王を窺う。

明らかに、彼は怒っている。

 「あともう少しでイけたんだよなーまた絶妙なタイミングで来たじゃねえの柳生ちゃん」

意地の悪い笑みを唇に乗せ、仁王が空いている方の手をひらりと揺らした後、
何を思ったのか、寛げていたズボンの前をたぐり、自身を引き摺り出していった。

 「もしかして狙ってきた?」
 「…私は、ただ…」

ただ、いつまで経っても部活に来ない貴方を探しに来ただけなのですが。
そう答えようとして、結局口を噤んだ。彼が望んでいるものは、きっとこんな答えではないのだろう。
仁王が自らの手で握っているものは、確かに彼の云った通り硬く勃起しており、先端からはぬるりとした液体がそこを濡らしていた。
他人の、唾液?
先程の女子生徒のものだろうか。急激に不快になっていくが、その理由は理解らなかった。
髪の毛を掴まれ彼の脚の下に跪いている柳生は、間近に見える生々しいそれから視線を外せないでいる。

 「そんなに珍しい?」

その様子を目敏く発見した仁王がからかうように問いかければ、

 「はい」

素直に返事をされた。だからといって頷く彼の表情はいつもの通り無表情だ。
つくづく変わった男だと思う。
怒りを通り越し半ば呆れたように見下ろしていた仁王だったが、
何かを思いついたのか、僅かに片目を眇めた後、床に座り込んでいる柳生に声を掛ける。

 「お前、俺に部活来て欲しいんだっけ」
 「はい」

再び頷けば、ぐいっと髪を掴み直され、顎が上がる。
そして唐突にその鼻先へ仁王のものが押しつけられた。

 「…、…っ?」

訳が分からなくて上目遣いで見据えれば、何が面白いのかその切れ長の両眸に薄い笑みを浮かべた彼と目が合う。
こういう表情をしている時は、確実に良からぬ策を考えているのだ。

 「これ舐めて。イかしてくんない?」
 「何、を……、っ」

口を開いた瞬間、先端を唇に押しつけられた。ぬる、と。
その生まれて初めて味わう不可解な感触に、生理的な悪寒が背筋を這い上がっていく。

 「お前の所為でイけなかったんだぜ?責任取ってもらわないとなー。ほら、舌出せよ」

ぐ、と左手が、髪を強く掴んだまま逃げないように頭を押さえつけている。
その所為で、仁王の両脚の間に跪いている柳生は自然に彼のものを奉仕する格好になってしまっていた。
頭の中は少なからず混乱しているが、とりあえず柳生は彼の云い分を聞き、服従する事にした。
自分がこれを実行すれば部活に来てもらえるのだ。そうすればダブルスの練習が出来る。

勝つ為には、練習をしないと。

こんな境地に立たされてもなお彼とテニスをする事を考える自分は、やはり何処かおかしいのだろうか。

 「柳生、舌、出して」

言葉を短く区切り、ゆっくりと口にしながら仁王は右手で自身を握り込む。
しばらく迷った後、覚悟を決めた柳生がそっと口を開き、舌先をその先端に軽く押しつけた。
これまで経験した事の無い感触、味に思わず舌を引っ込めかけたが、髪を触る掌にやんわりと押し戻された。

 「もっと。ちゃんと舐めて」

まるで甘い呪文のようにするりと耳へ入っていくそれらの言葉に従い、
舌を伸ばして先端を、そして徐々に竿の部分まで這わせていく。
彼の為なら理性なんて簡単に捨てられる。そして理性を捨てればどんな事だって出来た。

 「……ふ、…」

柳生の鼻から、くぐもった声が抜ける。じわりと舌に先走りの液が絡むが、構わずそれを愛撫し続けた。
そんな彼を上から見下ろしていた仁王が、頃合を見計らって腰を進める。
半開きの口に無遠慮にそれが進入し、柳生は驚いて顔を離しかけたが勿論仁王はそれを許さなかった。

 「咥えて。しゃぶって」
 「…っん、……ぅ」

口内を蹂躙されるような錯覚。圧迫されて呼吸が巧く出来ない苦しさに涙が眦に浮かんだ。
熱い。口に含んだ仁王が?それとも自分自身の吐息が?分からない。熱くて、苦しい。

 「もっと、奥まで」

くちゅ、と濡れた音が周囲に響く。意識の隅でぼんやりとそれを聴く。
おずおずと両手を添え、云われた通りに口の中でぎこちなく舌を動かせば、
口の端から唾液とも先走りともつかないものが緩やかに伝っていった。

 「………ん」

柳生の奉仕ははっきり云って下手糞だが、初めてだろうしこんなもんか。
この年齢にしては経験豊富な部類に属する仁王が膝の上に頬杖をついて冷静にそんな事を思う。
まあしかしいつもの何処か欠落した無表情よりかは、髪が乱れ控えめに熱い息を吐く、今の方が艶っぽいだろうか。
なんとなくいつもよりも「生きてる」っぽい。
最も、この男に艶っぽさなどあってもどうかと疑問ではあるけれど。

 「柳生」

名を呼んで、微かに熱に潤んだ瞳がこちらを見た事を確認して。

 「…へたくそ」

にい、と口角を吊り上げると、ズッとそこから自身を引き抜き、手慣れたように擦り扱いていく。
その行為を軽く放心した様子で眺めていた柳生だったが、再び髪を掴まれ顔を上げさせられた。

 「これくらいは出来るだろ。はいあーん」

そう呟いた仁王によって、しかし口を開くタイミングが遅れてしまった柳生の口許や頬には、白濁とした液体が浴びせられていく。

 「…!」

思わず両目を瞑る。
少し時間を置いて、その生温かいものが頬を、顎をとろとろと伝い、制服のシャツに染みを作っていった。
突然の事に何が起こったかついていけずに固まりっぱなしの柳生の正面で、仁王があ〜あとやるせない声を出す。

 「ほんっと絶妙なタイミングで外すな。やっぱ狙ってんじゃねえの?」

云われている事がさっぱり分からないのだが、ひとまず眼鏡を外して被害状況を確かめた。
レンズにまで飛び散っていたら事である。

 「ご期待に添えなかったのなら謝ります」

喋ってからその違和感にようやく気づき、唇を舌で舐めた。微かだが口の中に奇妙な味が拡がっている。
これが精液の味なのかと、次第に冷静になってきた頭でそんな事を思った。

 「…つーかさ…」
 「至らぬ所があれば仰って下さい。善処しますので」

今度は仁王が固まる番だった。
悪戯心の延長戦上の嫌がらせ(かなり悪質だと自分自身思うが)でやっただけなのに、
無理矢理嫌がる事をすれば、多少なりともダメージを与えられると、思っていたのに。
目の前の男はどうやらそれを自分の意図とは全く異なった方向に受け取ってしまっているらしい。
点検した結果眼鏡には付着していなかったのか、乱れきった髪の毛のまま、眼鏡を掛けなおして柳生はそんな仁王をいつもの顔で見上げる。

 「部活に行きましょう、仁王くん」

本当に、つくづく変わった男だと思う。
と同時に、仁王はこんな男に好かれているという事実に改めて気づき、そしてどうしようもなく、鬱になった。






■了■

 

- - - - - - - - - -

「手」は舐めるもの。「髪」はわし掴むもの。
はじめてのご奉仕、初々しい柳生を書きたかったんです。…が。