賭け



人通りの多い渡り廊下で出会った彼は、何故か唇の右端に赤紫の痣を作っていた。

 「…仁王くん」

名を呼べば、仁王は傷に構わず口角を吊り上げて、よ、と笑う。
見ているこちらが擬似的な痛みの感覚に襲われて、思わず眉を顰めたくなる。

 「図書室?」

何読んでんの。と緩やかに、無邪気に近付いてくる身体。
フワリと漂う甘い香りに、鼓動が僅かに速くなるのが分かった。

 「横溝か、渋いねえ」

ちょい、と人指し指で手にしていた本の背表紙を自分の方に向け、著者を確認した仁王が、更に軽く笑って。

けれど。

どうしてもその傷に目を奪われてしまう柳生は、無意識に再び、彼の名を呼んでいた。

 「仁王くん」
 「んー?」
 「その傷、どうしたんですか?」

興味深そうに、タイトルを区切りながら音読していた男の視線が、ようやく柳生と重なり合う。

 「ちいとしくじってな」

休み時間の数分間。
生徒で混雑している、渡り廊下に備わった窓枠にゆったりと背を預けると、
仁王は面倒臭そうに左手でするりと自分の唇の端に触れながら、続けた。

 「友達と賭けててさ、」
 「賭け?」

中学生が口にするには不穏当なその単語に、復唱する柳生の声音は自然に低くなる。

 「そう。…バレずに何人の子と付き合えるか?」

にい、と笑った仁王の瞳には悪戯の色が濃い。

 「一人落とすごとに4000円。彼氏がいる子を落とすと二倍」

一本、二本と楽しそうに指を折り、口説き落とした女性の数=金額を数えている。
何事も無く喋っているように見えるが、この男は、しかしとんでもない事を口にしているのではないだろうか。

 「結構儲かるんだわコレが。今まで俺の一人勝ちだったんだけど、つい最近落とした彼女の元男が…」
 「もういいです。事情は分かりました」

辟易した柳生は片手を上げ、仁王の言葉を中途半端に遮断する。
つまり彼は、恋人を突然遊び半分で奪われた末、逆上した男に殴られでもしたのだろう。

なんて下らない。

 「…そういう低俗な賭事は止めた方がいいですよ」

最も、自分に忠告されてハイそうですかと応じる男では無い事は百も承知だが、
それでも柳生は、苦言を呈じずにはいられなかった。

 「いつかきっと、痛い目に遭います」

儲かるからといってこのような賭けを続けたとしても、
最終的に彼と彼女達の両者が傷ついてしまうだろう結末が、容易く予測されるからだ。
それが理解らない男でもあるまいに。
感情を包み込んだ眼鏡の奥から、柳生は隣で伸びをしている仁王の表情を深く探る。

 「心配してくれんの?」

その視線に気付いた仁王がふ、と鼻で笑った。

 「いけませんか?」

ざわざわと。
生徒達の喧騒を避けるように端に佇む二人の間に、微弱な沈黙が流れる。

目を細め、面白そうに窺う仁王。
その視線を受け止め、返す柳生。

 「じゃ、止めさせてみる?」

凝固していた時間を先に動かしたのは、詐欺師の方だった。

試されている?

 「………いえ」

返ってきた紳士からの短い答えに、少しだけ眉を上げ、反応する。
開け放たれた窓から見える景色に視線を移動させながら、柳生は空いている方の手で自分のポケットを探っている。
するりとそこから現れたのは、黒皮の重厚な財布だった。
柳生の行動の意味が分からず、仁王が心持ち軽く首を傾げれば、
その気配を感じ取ったのか、ようやく柳生が顔を上げた。

 「私も賭けさせて頂きます」
 「へ?」

学校が誇る優等生の、予想外の答えに思わず妙な声を上げてしまった。
しかし隣に佇む男は気にせず財布から銀色の硬貨を取り出し、掌に乗せる。

 「今から硬貨を投げますので、表裏どちらかに賭けて下さい」
 「つか何自分ルールで進め…」
 「貴方が勝ったら、この財布をお渡しします。硬貨紙幣カード全て貴方のものにして下さって結構です」

暗証番号もお教えしますので。
感情の起伏が感じられない低音で、淡々と説明していく柳生。

 「私が勝ったら、現在交際している女性全員と別れて下さい」

仁王が無意識にスウ、と傷付いた口角を指先でなぞった。

 「本気で云ってんの?」
 「ええ」

財布を渡され、ずしりと重いその中身を確認すれば、仁王の約五ヶ月分強の小遣いが無造作に入っている。
医者の息子とはかくも違うものなのか、と心中思わず嘆息してしまった。

 「金額もデカいが、その分リスクもデカい訳ね…」
 「怖いですか?」
 「真逆」

柳生の無感情な視線を受けて、仁王が好戦的に微笑む。
元々、こういう危険な橋を渡るのは大好きな性分なのだ。

 「後二分で本鈴が鳴る。さっさとやろうぜ」
 「了解しました」

頷いた直後、柳生の掌にあった硬貨が宙に舞った。

表か。
裏か。

こういう勝負は動体視力が重要になってくる。
自分と柳生では、明らかに自分の方に分がある。仁王が硬貨に神経を集中する。
見計らって、柳生が落下寸前の硬貨を手に収めた。

 「裏だ。模様のついてる方」

間を置かず仁王が口を開く。

 「では私は表ですね」

対する柳生がそう云いながら、そっと掌を開いて見せる。
そのタイミングを見計らったかのように丁度、本鈴のチャイムが渡り廊下に鳴り響いた。

 「あり?」

仁王の発した素っ頓狂な声が、鐘の音と被さる。
掌に乗っていた硬貨は、表側を向いていたのだ。

即ち。

 「私の勝ちです」

硬貨を戻した財布をポケットに収めながら、柳生が呟く。
しかし納得のいかない仁王は、複雑な表情を浮かべたまま隣で唸っている。
賭けに負けた。
という事は(現在四名の)彼女(達)と手を切らねばならない。

 「うー」
 「授業が始まってしまいますね。仁王くん、そういう訳で失礼致します」
 「うー…」
 「ちなみに、先程の賭けは冗談ですので」
 「う………、って…はあ?!」

勢い良く顔を上げたそこに柳生は居らず、その背中は既に遠く離れていた。

 「どーゆー事だよコラ!柳生!」
 「言葉の通りですよ」

中指で眼鏡を押し上げながら、微かに振り返って、

 「私には貴方にそんな事を云う権限、ありませんから」

そう、静かに告げた柳生は、廊下の角を曲がって、消えた。

 「…」

対する仁王は、言葉を失ったままでその場に立ち尽くす。

何が云いたかったのか。
何を伝えたかったのか。

冗談など、云える訳など無いのだ、あの男は。
生真面目に、ただひたすらに、駆け引きなど考えられずに自分の想いをぶつけるしかない、それしか出来ない男なのに。

 「…訳分からん」

ポツリ、と無意識に本音が漏れた。
窓から抜ける一陣の風が、髪の毛を揺らしていく。

とりあえず。
柳生に免じて、当分賭けは自粛しようかな。

などと、似つかわしくない殊勝な事を、仁王はぼんやりと思ったのだった。





■了■

 

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賭けを止めるのでは無く、自ら乗っかる柳生でした。
仁王が珍しく翻弄されていますね。このお題難しかったです。