笑顔



その笑顔で恋に落ちる、という幻想。



紙の上をペンが走る。
淀み無く動くそれを、机上に両肘をつき、顎を乗せ頬杖をついた仁王が視線だけで、こっそりと追う。
彼の正面に座る柳生は、その静かな視線に気づく事無くノートに委員会の報告内容を書き記す作業を続けていた。
風紀委員の委員長。
なんてものに、柳生は一学期から就任している。
おおかたクラスメイトに押しつけられでもしたのだろう。
一年の時からそういった誰もが敬遠する役職を、彼は大抵こなしていた。
以前、嫌なら断ればいいのに。と当たり前の事を云ってやったら、別に嫌ではないですよ。と当たり前のように答えられた。
だからといって望んでなったという訳では無いだろうに。
柳生が着席している、何の変哲もない学習机の三分の一程を肘で占めながら、仁王はまじまじと正面の顔を眺めていた。
少しだけ俯き加減の顔。すっと通った鼻梁にスマートに掛かっている眼鏡。
それを外せば整った顔が現れる事を、知っている者は実は少ない。この男が人前で眼鏡を外す事を滅多にしないからだ。
伏せられた瞳を縁取る睫毛は、繊細で長い。
しかしそれすらもレンズの反射で打ち消してしまっている。

勿体無いな、と。
純粋にそう思った。

 「柳生」
 「何ですか」

ペンを動かす手は止めず、口だけで事務的に応答する。
きっと今、彼は物凄く集中しているのだろう。
頭の良い奴というのは、良くも悪くも集中力が抜群に秀でているのだと、仁王は考えている。
この、目の前に座る学校一の秀才がまさしくそうだからだ。
一度集中してしまうと、他の事が見えなくなり、何も手につかなくなる。そしてそれは余程の事が無いと途切れない。

特に深い意味など無く。
自分の方に意識を向けさせたくなった。
という、実に下らない理由で、もう一度、名前を呼ぶ。

 「柳生」
 「何ですか」

面白味も捻りも感じられない、全く同じ反応が返ってくる。
肘をついたまま器用に両肩を竦めると、仁王は再び口を閉ざして「柳生比呂士」という男を観察する事にした。
本当は今日だって部活があるし、行かなければならない事は分かっている。
そのつもりだったのだが、珍しく真面目に部室に向かう途中丁度委員会が終わったのか、
生徒会室の横を通った時中からわらわらと出てくる人達にぶつかって、脇にどいてその流れが止むのを待っていた。
そうしたら、一人教室の黒板を消している見慣れた男を見つけたのだ。
男はこれからここに残って、今しがた終わった委員会の内容をまとめ担当教師に提出しなければならないという。
それを聞いて、仁王もなんとなくそのままこの教室に残った。
部活に行くのが正直面倒くさかったというのもあるかもしれない。
この教室は、自分にとって余りいい思い出が無かったが、最高学年となり学校の仕組みを大体把握した今となってはどうでも良い場所になった。
部活に行けと促されるかと思ったが、柳生は何も云わなかった。
結局、そんな訳で今この状態に至っている。

 「…仁王くん、今月遅刻が多いですよ。気をつけて下さい」
 「もみ消しといてよ。委員長様のお力で」

皮肉をまじえてお願いすれば、後一回で呼び出しですから。とすげなく返された。
眉ひとつ動かさない、表情の硬いその顔をじっと見据える。
視線に気づいたのか、ようやく彼が顔を上げた。こういう処が何故か鈍い男だった。
その眼差しが間近になった所為で、眼鏡の奥の瞳は、やや茶色掛かった黒だという事に気づく。

 「…何ですか?」

少しだけ当惑したように、柳生が問えば。
仁王はいつもの、何を考えているか判別出来ない真顔で、答えた。

 「笑って」

突然のリクエストに、一瞬言葉に詰まる。
けれどそれを気取らせないように再びペンを持ち直すと、彼は逃げ場であるノートの紙面に視線を落としてしまった。

 「柳生、笑ってって」
 「突然云われても笑えません」
 「前から思ってたんだけどお前、俺の前では絶対笑わねぇよな」

なんで?
これは純粋に気になっていた事だ。
多少表情が欠落しているにしろ、人前での柳生は常に人あたりが良く、礼儀正しく紳士的で優しかった。
ブン太や柳の前でよく笑顔を見せている事も知っている。
けれど自分の前での彼は全ての表情を、感情を何処かに置いてきたかのような印象があった。
頑なに笑わない。
それに気づいたのはいつだったか、もう思い出せないのだけれど。

 「…」
 「答えろよ、柳生」

それまで黙ったままでいた柳生だったが、淡々とペンを進めながら、観念したのかそっと、口を開く。
努めて無感情な声を、作りながら。

 「特に理由はありません。それに、貴方も望んでないでしょうし」

どことなく刺のある、含むようなその云い方に、彼の隠された情念が微かに見え隠れする。
ふうん。と机上に乗せていた肘を下ろすと、何を企んでいるのか仁王がゆるゆると左手を柳生の髪の毛に近づけていく。

 「実は俺、お前の事好きなんだ」
 「それは嬉しくて涙が出そうです」
 「じゃ笑えよ」
 「嘘だと分かっている事に笑える程私は馬鹿じゃありません」

云い終わり、そっと中指で眼鏡のブリッジを上げる。朧気に反射した楕円のレンズが邪魔をして、その表情はけして明るみにはならない。
口調はひどく丁寧なのに、吐き捨てるようなそれだった。

ああ、また傷つけてしまったのだろうか?

仁王はそろそろと、相手の前髪に触れていた指をこめかみに、眦に移動していく。
されるがままの柳生は、微かに瞳を細めて、それが過ぎるのを待つ。

ただ。
笑うとどんな顔になるのか知りたくなったのだ。
笑顔を、見たくなっただけだ。

それだけなのに。
それだけだけど。

それすらも、最早不可能なのだろうか、自分は。

自分達は。

無遠慮な指は眦から頬に滑り落ち、右手も加わり唇の両端に触れ。
そして。

 「…仁王く…」

むに、と。
生真面目な顔をした仁王は、両手で柳生の口の端を緩く摘んで、軽く上方へと引っ張った。

 「笑った」

そう云って何故か得意げな表情で笑う彼に、無理矢理笑わされている柳生はどう対応したらいいか本気で分からず、
結果最終的に、心の奥で、脱力した。

 「…」
 「でもあんま可愛くないな」

当たり前だ。不自然に決まっている。そもそも楽しくて面白くて笑っている訳では無いのだから。
そう云おうとするが口は開けない。きっと開いても両端を摘まれている為まともな発声も出来やしないだろう。
柳生が何も反応しないのでつまらなくなったのか、それとも単にその行為に満足したのか、不意に仁王が彼の顔から両手を離す。
摘まれた頬が、少しだけ疼いた。

 「…?なんだよ」
 「…貴方は、」

銀色掛かった後ろ髪が肩口で揺れる。
きつい切れ長の瞳をこちらに向けて、彼が珍しく次の言葉を待っている。

 「…貴方は時々物凄く、馬鹿ですね」
 「はぁ?」

唐突に思いがけない事を云われてしまった仁王は、片眉を寄せながら柳生を見た。
けれど云った当人は再び無表情を作ってしまい、心の奥を悟られぬよう書きかけのノートに視線を戻している。
黒い文字列で埋まったページを、指先で摘んで、乱暴にカサリとめくった。

 「どういう意味だよ」
 「言葉の通りです」

笑顔なんて。

そんな希望は、初めて出逢ったあの日に捨ててしまった。
彼に笑顔を見せるなんて、そんな怖い事出来る筈が無い。
きっと笑ったまま、その手を離され、その想いを拒絶されるだけなのだから。
怖かった。
笑顔を向けて僅かでも心を許した挙句、全てを否定される事が。
だから笑えなかった。
こんな自分でも最低限の防衛機能が働いているのだ。それなのに。

笑って。なんて。

 「…柳生?」

怪訝そうな声が頭の上から降ってくる。
気がつけば柳生は俯いたまま、右手で眼鏡を押さえていた。迫り上がる感情を持て余し、必死で押さえ込むように。
眼鏡の縁に触れる指先は、微かに震えている。仁王はそれに視線を這わせたが、何も云わなかった。

笑わなく、笑えなく。そうしたのは貴方なのに。
何を、今更。

 「…本当に、馬鹿ですよ」

ああ、それなのに。
胸の奥底では、彼のきまぐれな願いに応じたくて懸命に笑顔を繕おうとしている滑稽な自分が確実に存在している。
そんな私も、とんでもなく馬鹿なのだろう。
なんなんだよ、と正面で憮然として悪態を吐く仁王を、
眼鏡を押さえた指の間から覗きながら、柳生は口許だけで密かに自嘲した。



彼の願いも私の笑みも、本当に、今更なのだ。





■了■

 

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仁王と柳生のすれ違いスパイラルはまだまだ続きそうです。