ぬくもり



貴方から与えられる唯それだけが。



まるで のようだ、と以前云われた事がある。
投げかけられたそれに対し、自分は一言も返せなかった。
単に言葉に詰まっただけなのか、それとも何か別の理由があったのか。
今となっては最早、その時の気持ちの在処を見つけ出す事さえ困難となってしまったのだけれど。

放課時間を大幅に過ぎ、誰も居なくなった生徒用玄関。
その広い敷地を結ぶ浅い階段を下った場所に一人佇んでいた柳生は、ふと手にしていた文庫本から顔を上げた。
コンクリの黒い地面に立つ足先から、じくじくと浸食する凍えた空気。
宵の暗さに変貌しかけている鈍色の空を仰ぎ見て、無意識に息を吐く。
雪が、降っている。
頬の辺りに冷たいものを感じたが、気にせず文字を追っていた。すると今度はその文字が、じわりと濡れて滲んだ。
しばらく思案した後、文庫本に栞を挟んで一旦閉じる。
帰ろうか、と思った。

 『用事、すぐ済むから』

けれど、

 『待ってて』

彼の言葉が自分の足を、縛りつけていた。
仁王が笑ってそう告げてから、既に2時間が経過しようとしている。
本日の部活は休みであると、伝えにいった先の教室で。
扉にもたれる彼の傍に可愛らしい女子生徒が隠れるように寄り添っていた事から考えて、今彼等が何をしているかは推して知るべきだった。
本当は。
あの後彼が横を通り過ぎた時、甘い香りと共に耳許近くで囁かれた言葉。

 『誰か来ないか、見張っといてくれよ』

優しい声音とは裏腹に、そんな言葉を与えられた。
振り仰いで見たら、一すじの銀髪を揺らしながら、彼も又こちらを振り返り口許だけで笑っていた。
まるで含むような。

出来るだろ?

形の整った色気のある、少し薄い唇で。
何も云わず、何も云えずに廊下に立ち竦んだまま、柳生はそこから動けなかった。

自分にだって、最低限のプライドはあるのだ。
そう、自分に云い聞かせて。
だからその場を離れた。云いつけを破り校舎から出た。
そう、自分を上手く誤魔化して。
本当は、遮蔽されたその向こうにいる彼の、そして相手の行為を、声を、物音を、聴きたくなかったから。
そんな状態、耐えられなかったから。
逃げ出した、だけなのだ。
けれどそんなみじめな自分を認識したくなくて、頭の中で体のいい云い訳を用意し安心しているだけだ。
それをきちんと理解しているところがますます滑稽だと思う。冴え過ぎた頭では自分自身すら騙せやしない。

定時を過ぎ、玄関とその周囲にポツポツと青白い灯がともっていく。
幾分か明るくなった視界を頼りに腕時計を一瞥してから、柳生は再び文庫本を開く事にする。
30分。
これで来なかったら帰ろう。彼を置いて。
そうしてそのまま愛想を尽かす事が出来たならどんなにいいだろうか、と。
出来もしない事に想いを馳せながら、読みかけのページを感覚の薄れた指で、捲った。



 「じゃ、気ィつけて帰んなよ」

のろのろと帰り支度を済ませた女子生徒は、
床に座ったまま戸惑うように顔を上げ、その言葉を受け止める。
無断で使用した備え付けの暖房機具が鈍い音を立てていた所為で、聞き間違いだと思った。

 「どうして?一緒に帰ってくれないの?」
 「あー俺部室に忘れもんしてきたから」

背中を向けたままでのろのろとシャツを羽織る男を、彼女はますます怪訝に見つめる。
衣類の擦れる乾いた音だけが、陽の落ちた暗く温い教室内を満たしていく。
その背中は、無駄な会話は一切しないと無言で主張されているようで、厭な気分になった。

 「先帰って」
 「いいよ、私も仁王くんと一緒に行くから…」
 「先、帰って?」

はっきりとした語気。怒ってはいない。
確かに甘く優しい声なのだが、逆にそれが怖かった。
その決然とした言葉に硬直し、黙りこんでしまった彼女に向き直ると、
仁王は首にネクタイを引っかけたままで、いつも通りの笑顔を浮かべる。

 「もう時間、遅いから。…あと、『仁王くん』て云うのもやめて」

思わず開きかけた柔らかな唇に、そろりと指を添えて。

 「『雅治』でいいから」

ね。と、笑う仁王に対し、彼女は笑い返す事が出来なかった。

部室に忘れ物がある、というのは嘘ではなかった。
明日が提出期限である数学の課題プリントを、昨日ロッカーに突っ込んだまま帰ってしまった為、
今日の部活の際忘れずに取りに行こうとしていたのだが、放課後になって突然柳生から休みだと告げられたのだ。

柳生。

ガタン、と建て付けの悪いロッカーを足で乱暴に押し込めるように閉めた後、
僅か一日で皺がついてしまったプリントを伸ばしながら仁王は彼を思い出す。
校舎に彼の姿は無かった。既に帰ってしまったのだろうか。

 「…見張っとけっつったのになー」

四つ折りに畳んだプリントを鞄に詰めた後、ふと周囲を見遣る。
部室にも来た形跡も、無い。
待っていろと云ったのに。
そこまで考えて、緩い笑いが口から漏れた。

 「バカバカし」

居ない。
だから何だというんだ。
さっさと帰ろうと部室の扉を開け、外に出たのだが、足許に違和感を感じる。
校舎からクラブハウスへと抜ける渡り廊下を通ってここまで来たので上履きのままだった。
わざわざまた玄関へ戻って靴に履き替えるのは至極面倒だったが、仕方が無い。
仁王はひとつ大きな欠伸をしてから、来た道を戻るように、校舎へと続く人気の無い廊下を渡って玄関を目指した。



あと、20秒。
腕時計の秒針を眺めながら立ち尽くす柳生の耳に、ガタンと小さな物音が響いた。
玄関。
5分程前、彼と一緒に居た女子生徒が、
一人靴に履き替え早足で帰っていく姿を自分は見ている。
だから。
きっと。
ぱらつく雪に視界を邪魔されて、それでも下駄箱の音がした方を探すように懸命に視線を向ける。
少しだけ、靴底を引きずるような歩き方。
癖のあるその足音は、もう随分昔から記憶済みだった。
ガラス張りの扉を開けて、瞬間寒そうに仁王が肩を竦めながら出てくる。
不機嫌そうに眉を寄せ、白い息を吐いて、そうして。

 「…あれ」

低い階段を降りた先に佇む柳生を、視界に捕らえた。
相変わらず彼は無表情を崩す事無く、こちらをじっと見ている。

 「やぎゅーう」

数段しかない階段をゆっくり、ゆっくりと降りて、徐々に互いの距離を詰めて。
ようやく柳生の前まで辿り着くと、身体を丸めるようにして制服のポケットへ両手を突っ込んだまま、仁王はまじまじと正面の男を眺め回した。

 「もしかして、ずっと待ってた?」
 「待っていて欲しいと云ったのは貴方だったと思いますが」

お忘れですか?と問い返され、どちらともつかないような笑みをその唇に乗せる。

 「2時間。くらいだよなー今7時前だから。2時間も」

何がそんなに可笑しいのか、小刻みに両肩を震わせながら。
柳生はそんな仁王を気にしつつ、読みかけの文庫本を鞄に詰める。
けれどかじかんだ指先は先端が軽く麻痺して、上手く鞄のポケットに入らない。
苛立つように俯いて、何度もその動作を繰り返す彼の頭上に、

 「ばーか」

笑い声の混じった言葉が降ってくる。
顔を上げた途端、いつの間にか間近になっていた仁王の瞳とぶつかった。

 「2時間だぜ?云われたからって素直に待ってんなよ。馬鹿じゃねーの」

こういうところが、本当に鬱陶しい。
笑いながら制服のポケットからおもむろに出した左手は、硬直したままの柳生の頭に触れ、髪の毛を半ば乱暴に掻き乱す。
微かに厭がるような、けれど熱の篭もった眼差しを向けられる。こういう視線が、本当に本当に鬱陶しくて、そして癖になる。

 「ほんと、まるで だな」

侮蔑するように、けれど愛おしむようにそろそろと、左手は微かに乱れた前髪を降り、頬を撫でた。

 「仁王くん」

だからそんな声で呼ぶなっつの。

 「寒かっただろ」

いつの間にかその両掌は柳生の頬を包んでいる。
長時間吹きさらしの場所に居た所為でひどく冷たくなっていた。
触れた先、暖かかった仁王の指から、掌から急速に体温が移っていく。

 「良くお利口に待ってたな、えらかったな」
 「…やめて下さい。私は、」

 じゃない。違う。私は。
反論しようと準備した言葉は、けれど喉が掠れて上手く声が出せない。身体中が震えて仕方無かった。

 「…私は、」

ゆる、と頬を包んだまま、指先で優しく唇を撫でられる。
外気で乾燥しきったそれはかさりと引っかかるような感触を、仁王の指にもたらす。
触れられた先が熱を伴って温かい。冷えた身体から力が抜けていく。
柳生は黙って、愛撫を受ける。彼の熱が自分に譲渡される、その感覚をもっと味わいたかった。
もう、どうでもいい。唯、このぬくもりさえあれば。

 「犬だよ、お前なんか」

そう。



所詮私は彼の犬なのだ。







■了■

 

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ご主人様と犬が書きたかっ…柳生はとっても犬属性だと思う。
仁王に黙って仕える賢い忠犬。みたいな。けして主人を裏切らない。