たわむれ



 「仁王くん」
 「んー」
 「もしも私が女性だったら、貴方は私を好きになってくれましたか?」



瞬間。
机の上にピンク掛かった乳白色の液体が細かく飛び散った。
仁王が飲んでいたイチゴ・オレを鈍い音と共に噴き出したからだ。

 「ハンカチどうぞ」
 「…………どうも」

鼻に入った。今絶対鼻に入った。
軽く咳き込んだ後、苦しそうに前傾姿勢になってそんな事を思っている彼の顔の前に、すっと白いハンカチが差し出される。
きちんとアイロンが施されているそれで口許と汚してしまった机上を拭きながら、仁王は涙目で返答すべき言葉を探した。
対する柳生は、自分の投げかけた質問が至極まともであるかのような顔で正面の椅子に座り、涼しげに部誌を書き記している。

居残ってこれを書いているのは、仁王がいつものように部活に遅れ、ダブルスの練習が長引いたからである。
彼と組んで間もない頃、再三その遅刻癖を直すよう注意を促していた柳生だが、それから半年が過ぎる頃には、
注意を促す時間をそのまま居残って部誌を書く時間にあてた。今になってそれは正しい選択だったと柳生は思っている。

まだらにピンクの染みがついてしまったハンカチを眺めながら、
結局確たる答えを見つける事が出来なかった仁王は、質問の真意をおそるおそる、尋ねてみる事にした。

 「……どういう、」
 「いえ、ただふと疑問に思っただけです。女性であれば可能性が広がったのかどうか」

仁王が不可解なモノを見るように眉を寄せたまま、固まる。
可能性。
可能性?…はっきりいってそんなものなど、考えた事もなかった。

 「……いや、…柳生は柳生だろぉ」

どう考えても。
Ifなんてありえない。柳生が女だったら、なんて。
なんだそれは。何かの冗談か。紳士のエスプリに満ちた冗談なのか。
小さな頃から理数科目が得意だった自分は、その代わりといってはなんだが、
文系科目は教師が匙を投げる程、壊滅的に悪かった。故に読解力も無ければ人の心情を汲み取る事も苦手だ。
答えは常にひとつしか考えない。
否、…この場合は単に自分が考えたくないだけか。

 「では私が女性であっても可能性は無いという事ですね」

相手の弱々しいコメントからあっさりと解答を導き出した柳生は、
それきり何事も無かったかのように部誌に視線を落とし、ペンを走らせ始めた。
この男の、こういう場面での気持ちの切り替え方は物凄い。と、仁王は時折思う。
まるで自分の気持ちを、想いを速攻切り捨ててしまうような、そんな潔さ。

 「…お前が女でもやっぱり俺を好きなのか?」
 「そういう仮定で話を進めて頂けると有り難いです」

柳生が女で且つ俺を好き。
仁王は椅子の上で肘をつき、不安定な姿勢で顎を乗せたままう〜〜〜ん…と悩む。
余り豊かでは無い想像力を駆使して、同様に得意ではないイメージトレーニングを応用して。
そうしてひとしきり悩み終え用意した結論を、正面で紙の上の文字を追っている柳生から目を逸らせつつ、
ぼそりと、低く呟いた。

 「…一回くらいは、やるかな…」
 「最低ですね本当に」
 「だって俺の事好きなんだろ?」
 「好きですよ」

すっ、と。
唐突に、二人の視線が絡まる。
喉の奥に突っかかった息を、呑み込んだ。
ああ、そういえばこいつの素顔は結構、いやかなり整っているんだった。
女だったらもしかして、眼鏡取ったら美少女系?
途端、乾ききった下らない笑いが出そうになって、仁王が緩みかけた口許を引き結ぶ。

 「何故こんなにも好きなんだろうと自分でも厭になるくらい、好きですよ」

端正な唇で無機質に愛を告げられても。

 「………俺、追いかけられるより追いかける方が好きなんだよな」

逆に冷えていくだけだというのが、何故理解らないのだろう。
と、思う。こんなにも頭がいいのに、ごく簡単な事が理解らない。
そのギャップが、いつも不思議だった。

 「成程」

何故か興味深そうに、柳生が静かに頷く。
目の前で、授業を聞いている生徒のような面もちで。
ああ、そうか。
この男に「好き」という感情を教えたのは自分だ。
それ以外の事は、本当に何も知らないのだ。自分が次を示してやらないと、先へも進めない。

そんな何処か病んだ感情を。
今になって、柳生は持て余しているのだろうか。

こくり。と微かに息を呑んだ。
軽い目眩で視界がぐらつく。乾いた唇を舌で濡らす。
バカバカしい程の真っ直ぐさでもって見つめる、その想いを含んだ瞳に気圧されそうになる。
女であれば、傍から見れば。
淑女めいて潔癖な、感情の欠落した知的美人、というところだろうか。
そういうタイプはさぞ陥落しがいがあるだろう。

部室の中で蔓延り始める沈黙の糸を切るように、仁王がカタン、と席を立つ。
机に両手をついて、立ったその場で少しだけ中腰の姿勢になり、正面に座る柳生にその顔を寄せた。
次第に間近になっていく、互いの唇。
ゆっくりと頭の中で弄ぶ思考、交わす言葉と、そしてこの密室の雰囲気。
まるで二人を取り巻くあらゆる全てがたわむれで出来ているような、真実とは紙一重の。
そんな空間だった。
吐息が触れて溶けそうな程の至近距離を取って、仁王はゆっくりと口を開く。

 「お前が女で俺の事嫌いだったら、好きになってたかもな」

そう囁いて、眼鏡の奥に隠された瞳を見つめた。

 「追いかけて拝み倒して彼女になってもらうかも」

この言葉を受け、今度は柳生が不可解なモノを見るような顔つきで眉を寄せる。

 「…悪趣味です」
 「お互い様だろ」

そんなもしもの世界なんて、永遠にやって来ないのだから。
仮定づけた条件で解答を望んだとしても、それはずっと仮定でしかないのだ。真実にはならない。
そんな馬鹿馬鹿しい答えを、

 「お前はどっちを望んでたんだよ」

女でも好きにならなかったと、
女だったら好きになったと、
そのどちらの答えを示せば、この男は満足したのだろうか。

きつい視線に負けた柳生は俯いて押し黙ったまま、ペンを持つ指先にじわりと力を入れていく。

 「分かりません…ただ、」
 「ただ?」

少しだけ逡巡したが促されるようにつ、と顔を上げ、
先程の仁王と同じように視線を逃がしながら、男は静かに告げた。

 「貴方はやはり残酷な人だという事が分かりました」
 「否定はしねーな」

緩く笑う。
所詮こんな関係、たわむれのようなものなのだ。
何を云ったって、何を感じたってそれは。

 「どっちにしても俺、お前の事、嫌いだしな」

密やかに傷つく柳生を見たって、それは。






■了■

 

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この場合の「たわむれ」は「ふざけること。冗談。また、本気ではなくて、遊び半分なこと。」
でしょうか。柳生の本気にたわむれで応じる仁王、という感じ。どうにもこうにもな2人。