携帯電話
耳にこびりついて離れない、あの
病院の匂いが嫌いだ。
あの、入り口の扉を開けた瞬間鼻を掠める独特の匂い。
薬品や医療器具、そしてどこかしら病んでいる人々の少し重苦しい雰囲気が混ざり合って、
これ程広い院内だというのにたまらない閉塞感を覚えてしまい、途端に息の仕方が分からなくなる。
「これ先月分の部誌とメニュー表」
来た早々備え付けの椅子にどっかりと腰掛けながら、仁王は鞄からそれらを取り出し、ベッドの背に凭れ座っている幸村に手渡した。
彼は入院してからもずっと、ここで毎月の部誌とメニュー表に目を通している。
元来これを届けるのは真田や柳の仕事だったのだ。それがいつの間にかレギュラーが毎月交代で行くようになった。
個別で話をしたいという幸村の願いもあったらしい。大きな大会が終わった後などは皆で戦勝報告と称しこちらに来たりするのだが、
それ以外は余り顔を出さない部員も多いのだろう。例えば自分のように。
幸村は受け取った部誌を手元に置くと視線をそこに落としながら、穏やかに尋ねる。
「何か変わった事は?」
「特にー。…あ」
ギギ、と椅子が小さく擦れる音。
引きずるようなそれに顔を上げ、音のした方に視線を移すと、
仁王が座ったまま移動して、見舞い品のバナナをくすねている所だった。
「柳生が携帯持った」
黄色い皮を剥きながら、忌々しげに告げる彼を眺め、幸村の顔がしてやったり、という風にふわりと綻ぶ。
「先月進言してみたんだ」
「やっぱお前か!」
仁王が思わず白い天井を仰ぐ。あの柳生がそんな事を思いつく訳が無いのだ。
勉強全般は最強だが、それ以外は笑える程無知であるという事は、自分が一番良く知っている。
「だって、本当に困っていたようだったから」
不機嫌そうにバナナにかぶりつく仁王を眺めながら、幸村が笑いを堪えつつそう弁明するが、相手の機嫌はそう簡単には直らない。
先月、部誌とメニュー表を持参してやって来た柳生は、全ての報告を終えた後、静かなため息と共に悩みを吐露したのだ。
仁王くんが、捕まらないんです、と。
部活に来ない仁王を部活前から探す柳生。
二人がダブルスを組んでからずっと行われてきた日常的なやりとりだ。幸村も勿論それを知っていた。
彼らがダブルスを組んだ当初も、似たような相談を持ちかけられて「パートナーを探すのもダブルスの努めだよ」と、
真理なのか適当なのか良く分からない事を云って柳生の背を押したのは、他でもない幸村自身である。
柳生はいつも真剣に探しに出ていたが、仁王の方はある種こういうやりとりを楽しんでいる節もあった。
だから本気で姿を眩まさない。きちんと柳生の見つけられる範囲内で隠れている。
まるでじゃれているみたいだ、と幸村は思っていたのだが、現状の方はなかなかそう上手くいっていないらしい。
「俺は教えてないのに、なんでか番号を知ってる」
おかげで放課後は着信の嵐だ。と苦々しく告げる仁王。
どうやら捕獲率は飛躍的に高まったらしい。幸村はにっこりと笑いながら口を開いた。
「拒否設定すればいいのに」
「めんどくせえ」
「じゃあ番号、変えてしまえば?」
「金がねーんだよ…つーかお前」
どっちの肩を持ってんだ?と怪訝そうに睨まれて、ごめんと素直に謝った。
退屈な日常を送っている身としては、彼らの関係性は本当に興味深いものだったから。
ベッドの上で、にこにこと平和そうに笑っているものの、心情が全く読めない部長から諦めたように視線を剥がすと、
仁王は少し離れた場所に置いてあったゴミ箱めがけ、バナナの皮を投げ捨てる。
瞬間シャリ、とゴミ箱を覆っていたビニール袋の擦れる小気味のいい音がした。
「つー訳で、出来れば余計な入れ知恵はしないで下さい部長殿…ってくらいかな。俺の報告としては」
「善処する」
そう云って薄く微笑み頷いた後、幸村は再び手元に広げた部誌に視線を戻した。
「…あぁ、でもひとつだけ忠告してもいいかな、仁王」
「何」
呼ばれた仁王は既に帰り支度を整え、部屋を遮るカーテンに手を掛けていた。
面倒臭そうに軽くこちらを振り返る。余程ここの雰囲気が合わないらしい。
健康な人でさえ長時間居ると気持ちが滅入ってしまうような場所だ。こういう体質の人間が居ても不思議ではない。
幸村もそれは理解しているつもりだけれど、思わず引き留めてしまった。
先月ここに来た彼の、あの疲れた表情を見てしまったら、どうしても云わずにいられなかったのだ。
「余り意地悪をすると、逃げられるぞ」
それを聴いた仁王の表情は、とてもつまらなそうに見えた。
けれど。
冷めた瞳がすうっと一気に細くなる。
威圧感に満ちたそれと目が合った瞬間、本能的な恐怖が背筋を伝った。
踏み込んではいけない所まで、入ってしまった?
干渉し過ぎたか、と幸村が無意識に身体を固くした直後、冷徹に細められた仁王の瞳は緩い弧を描いていた。
「逃げてーのはこっちの方だよ」
幸村が次の言葉を告げる暇を与えず、片手をひらりと揺らして男は白いカーテンの向こうに消えていった。
一瞬だけ見えた白銀色の後ろ髪が翻って光りを帯び、それがやけに頭に焼き付いてしまい、
幸村は軽く頭を振りながら、無意識に乗り出し掛けていた身体に気づき、再びゆっくりと両肩をベッドの背凭れに押しつける。
分からない。
力関係からいって、支配されているのは柳生の方だとばかり、思っていたけれど。
仁王も、支配されている?
柳生に。
そこまで思考を巡らせかけたが、さっさと放棄して脇に置いてあったメニュー表を手に取る。
自分は愚かではない。故にこれ以上踏み込むことはしないだろう。
あんなややこしい二人につき合っていたら、こっちが参ってしまう。
「………君子危うきに近寄らず、だ」
昔の人は上手い事を云ったものだ。
幸村は小声でそう一人ごちると、数字の羅列で埋められているメニュー表にゆっくりと意識を移していった。
病院の匂いは嫌いだ。
これでようやく息が出来る。正面玄関を出てすぐ、仁王はズボンのポケットから、携帯電話を取り出した。
パチンと開いて、今まで切ってあった電源をONにする。
メールをチェックする為指を動かした瞬間、着信を知らせるランプの赤い点灯に目が行った。
着信履歴を開けると、そこには同じ番号が並んでいる。
名前登録すらしていない、けれど誰かは分かっている見慣れた電話番号。
駅への道を歩きながら、並んでいるその番号を、ひとつだけ残して全て履歴から削除していく。
ただ一方的に、掛ける事しか知らなかった馬鹿な柳生に、以前ひとつだけ「命令」した。
『俺が掛けた電話には、必ずすぐに出る事。』
アホな命令だ、と自分でも云いながら笑えて仕方が無かった。
そもそも自分から柳生に電話を掛けるという確率など、無に等しいのだから。
柳生は、そんな馬鹿馬鹿しい命令でも律儀に遵守しているのだろうか。鳴らない電話をずっと待っているのだろうか。
そう思うと、更に笑えた。現に彼に電話をした事は、これまでに一度も無い。
コンビニの前で立ち止まり、人を避けるように、
入り口の脇の所に設置してある煙草の自販機に凭れかかって、開きっぱなしの携帯電話で現在時刻を確認した。
病院へ行くという理由で部活を途中で抜けて来た時間から、もう2時間は過ぎている。
この時間だとおそらく部活は終了しているだろう。一部の練習熱心の部員やレギュラー達を除いて。
仁王は再び履歴を開くと、ひとつだけ残した番号を見下ろし、発信ボタンを押す。
初めて柳生からの電話に出た時、耳許すぐ傍で聴こえてきた声に云い知れない不快感がこみ上げた。
耳の奥から浸食されるような、そんな奇妙な錯覚すら覚えた。
余りにも近い。
その距離が、とても不快だったのだ。
一瞬の無音状態から呼び出しのコール音へと切り替わる。
そして一回目のコール音が終わる直前に、ブツリと、
『もしもし』
つながった。
柳生が出た。
コール一回で。
つまり、あの馬鹿馬鹿しい命令を、やはり、ずっと。
守っていたのだ。
『仁王くん…?』
耳許にそっと触れる、落ち着いた低音。
自分の言葉を待っているのだろう柳生に向け、
すっと軽く息を吸い込み仁王が電話口に向けて放った第一声は、
「出んなよ、馬鹿」
だった。
矛盾しているにも程がある。そんな事自分でも分かっている。
それでも苛つくのだ。どうしても不愉快なのだ。自分の言葉を丸ごと信じて実行する、そんな柳生が。
心の奥底では、征服欲が満たされ酷薄な笑みを浮かべている自分も、確実に存在しているというのに。
仁王の言葉に、電話の向こうの柳生は躊躇ったように少しだけ黙った後、
『はい』
と、生真面目に答えた。
それすら聞かずに仁王は電話を切ってしまう。もう、一秒たりとも彼の声を聴きたくなかった。
電話は距離感が狂う。目ではっきりと見えない、確認できない為、互いの立場も関係も全て歪んでしまう。
不安で不快でたまらなくなる。
あちこちに跳ねている髪の毛をがしがしと乱暴に掻きながら、仁王は携帯電話のボタンに親指を這わせる。
耳にこびりついて離れなくなる前に、ひとつだけ残してあった番号を、削除した。
■了■
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ぐるぐるしてる仁王が書けて楽しかったです。