距離
ただの遊びの筈だった。
ただのオモチャの筈だった。
ただの暇潰しの筈だった のに。
あの後、まるで何事もなかったかのように柳生はコンビニへプリンを買いに行き、仁王はそれを黙って食べた。
味なんかしなかった。口の中に触れてはすぐに壊れてしまうひんやりと柔らかいものをただ黙々と機械的に咀嚼する。
柳生との距離が掴めない。
その得体の知れない、恐怖にも似た感覚が背後からじっとりと重たくのしかかっているようで、ずっと顔を上げられなかった。
その三日後、仁王はひとつの「命令」を柳生に下した。
近づくな。
余りにも端的で冷徹な言葉に、しかし結局は甘んじて従うつもりの柳生は、躊躇い無くはいと答えた。
これまでも何度かこういう事はあったし、彼が満足すればそれはいつか必ず終わるのだ。近づけなくたって、遠くから眺める事は出来る。
けれど少し気になった。いつだって自分に「命令」を強いる仁王はとても楽しそうなのに、今回は怖い程真顔だった。
むしろこちらを忌避するような、そんな感じすらする。そのごく小さな違和感を抱いた時、唐突に不安になった。
いつもと違う、ただそれだけで、足許からもろもろと崩れていきそうな頼りない気持ちになってしまう。
だから、これ以上そんな違和感が胸の内に拡がらないように、この「命令」だけはきっちりと従おうと思った。
しかし、遵守し続けて数日経った頃、いつものように部室で制服からユニフォームへと着替えていた柳生の中で、突如新たな別の疑問が生じた。
距離を分かつ、近寄らないというのは、決められた隔たりを二人の間に存在させる、つまり意図的に隔たりを作るという事だ。
そんなものは最初からあった筈だ。彼の内側になんて自分はけして踏み込めない。近づく事さえ。
今まで柳生はこの「命令」を物理的に距離を置く、という意味で捉えてきたが、
もしかしたら相手に対する想いの距離を置かなくてはいけない、という意味だったのだろうか。
だとしたら事態は変わってくる。
何故なら、仁王の内面に踏み込む事がけして不可能であると同時に、自分の仁王に対する想いを遠ざける事などけして不可能だからだ。
柳生はこの考えに至った時、じわりと背中の表面に厭な汗が浮かぶのを感じた。
同じように着替えを済ませた数人の部員達が、各自ラケットを手にして慌ただしく部室から出ていく。
そろそろ練習が始まる時間だ。頭の中で、理性的な自分が現在の時刻と照らし合わせ今後行うべき行動を提示する。
けれど胸の奥に潜む感情的な自分はその提示を無視して、すぐ目前にあるひんやりと固いロッカーの表面に、掌を押しつけた。
そのまま開いてた掌にゆっくりと力を込め指先を折り曲げながら、それを拳に変えていく。
だとしたらそれは。
余りにもその「命令」は。
部活中。
おそらくそれがクラスも学内での行動範囲も違う仁王と、一番距離が近くなる時間だ。
部員同士の練習試合などが行われる場合、ダブルスは基本的に公式試合に出場しているメンバーで組む為、その確率はぐんと高くなる。
そして仁王と柳生は本日もいつものようにペアを組み、いつも通りダブルスで順調に勝利をおさめていた。
他の部員達は、この二人の間に鉄壁にも等しい「命令」というものが存在している事など知らない。
そもそも当事者達がそんな雰囲気を全く気取らせない。それ程までに自然を装って、気心の知れたふりをした互いの連携プレイは、
しかし快調にポイントを取れば取る程、柳生の心をぎりぎりと締め付けていく。
あの「命令」の本当の意味を、訊かなければいけない。
自分は余り頭が良くないから、彼の云った意味を履き違えているかもしれない。
けれどもし別の意味での近づくな、だとしたらそれは守る事が出来ない。この場合、一体自分はどうすればいいのだろう。
柳生が無表情のままで、見慣れたコートの地面に置かれていた視線を、すっと上げる。
レンズ越しの視界には、自分の斜め前に立つ仁王の姿が自然飛び込んでくる。無意識に軽く息を呑んだ。
たったこれだけの距離なのに、あと数歩進めば一筋の銀髪が揺れる肩に、ボールを追って躍動する背中に触れられるのに。
それはけして叶わない願いだと分かっている。理解しているのだけれど。
柳生は意識をゲームの流れの中に引き戻す。この試合展開ならば容易に勝つ事が出来るだろう。
後ろに立つ自分に対して、頑なに拒絶を示している仁王の後ろ姿を眺めながら、握り締めたボールを上空へと放った。
「訊きたい事があるんです」
試合が終わり、皆がそれぞれアップを始める頃、
一足先にさっさとそこから抜け出し、テニスコートと部室の間にある手洗い場で、
蛇口から溢れている水に顔を突っ込んでいた仁王は、少し遠くから聴こえてきたその平坦で感情の希薄な声を無視した。
「…仁王くん」
平坦で感情の希薄な声は、少しだけ躊躇ったように間を置いて、けれど今度はしっかりと自分の名前を呼んだ。
仁王は上に向けた蛇口から顔を離すと、滴が首や肩に伝い落ちるのも構わずそのまま口に含んでいた水でがらがらとうがいを始めた。
その様子を一定の距離を置いた場所で眺めていた柳生は、何かを考えていたのだろうか、
その間じっと口を噤んだままだったが、しばらく経つと、また懲りずに淡々とした口調で話し始めた。
「仁王くんは私に近づくな、と仰いましたが、それは具体的にはどういう事なのか、教えて頂けないでしょうか」
乾いた口の中を丹念に濯いで吐き出す。
この、融通のきかないところが鬱陶しい。
几帳面で生真面目で真っ直ぐで、本当に鬱陶しい。
仁王は手洗い場の傍に掛けてあったタオルを手に取ると、顔をそれで覆うように拭った。
柳生の顔を見たくなかった。胸の中では先程から不快で厭なものがどろどろと渦を巻き続けている。
近寄らせないだけでも駄目なのか。
「それぐらい自分で考えろよ」
「考えても分からないんです。ですから、」
あなたに訊いているんです。平坦だった声に微かな変化が混じる。柳生の感情が少しだけ揺れている。
けれど仁王はそれを徹底的に無視するように離れた相手に背を向けたまま踵を返すと、部室のある方向へと早足で歩き始めた。
思わず柳生は口を開く。無意識に彼を引き留めようとする行為は、それだけで仁王を酷く苛立たせる。
「仁王くん」
仁王くん。
名前が。
その呼び方が。
歩きながら耳にした自分を呼ぶ声は、不必要に胸の奥をざわざわと厭な感じに波立たせた。
あの時と同じだ。
自分の度を越えたわがままをただひたすら受容する柳生。
それに慣れて甘えていつしか当たり前になって無意識に柳生に依存していた自分。
そして、互いのバランスがとっくの昔に崩れ去っていたと知ったあの時。あの、瞬間。
どうしてこんなに煩わしいんだ。
どうしてこんなに神経を逆撫でするんだ。
柳生が。自分が?よく分からなくなる。頭の中が軽く混乱する。
柳生に名前を呼ばれた、ただそれだけで。
「に…」
「名前を呼ぶな」
歩みを止めた背中から押し殺したような声が聴こえる。仁王は全身で柳生を拒絶している。
いつも彼が見せる余裕はそこには無かった。そんな仁王を目の当たりにした柳生は、
しかしどう接したら良いかが分からず、結局再びゆっくりと、何度も繰り返しては輪郭が摩耗していく思考を巡らせるしかなかった。
名前を呼ぶな。これは新たな「命令」なのだろうか。制約が増える事は別にいい。自分と彼がそこでつながっている気がするから。
それは柳生だけが抱く事の出来る、彼にしか持ち得ない後ろ暗い優越感だった。
けれどやはり、最初に下された「命令」の本当の意味が未だに分からない。
想いは絶対に遠ざける事は出来ないから、物理的に離れる事だけを心がけようか。
それとも。立ったまま考え込んでいると、緩い風が肌をなぞった。
それはユニフォームが汗に濡れている事を同時に思い出させてくれる。
吹いてくる風に乗って、遠くからテニス部員達の終了を告げる掛け声が耳に届いた。
そろそろ皆、部室に戻ってくる時間帯かもしれない。柳生は左手首に視線を傾けたが、
そこにはリストバンドしかなく目当ての物はタオルと共にテニスコート脇のベンチの隅へ置いてきた事にようやく気づいた。
そんなごく当たり前の、自分の習慣を忘れてしまう程、もしかしたら不安定になっているのだろうか。
自分が思っている、それ以上に。
ぐずぐずと自分の思考から抜け出せずにいる柳生を知ってか知らずか、
そんな彼に対して、仁王が背を向けたまま独りごちるように最後の言葉を云い渡す。
「金輪際、俺に話し掛けるな」
銀髪が風になびいてゆっくりと揺れる。やけに落ち着いた声だった。
柳生は、自分の立っている地面が何故かぐにゃりと歪んだような気がした。
■了■
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崩れ始めた均衡。