別々の時間



 「お隣よろしーですか〜ア」



軽い口調で云いながら、けれどブン太は相手の返事を待たず一方的に隣の席へと腰掛けた。
食器を乗せたトレイをばん、と机上へ叩きつけるように。
隣で騒がしい音を立てるそんな彼に対し、一瞬煩わしげな瞳を傾けた仁王だったが、
視線を向けただけで何も云わず、持っていたスプーンを口に運んだ。
昼休みのざわついた食堂内で、まるでそこだけあるべき喧噪から除外されてしまったかのように、二人の間を凍りついた沈黙が包む。
それを無視して両者は無言のままに食事をとっていたが、その厭な間を破ったのは後から来て先に食事を済ませたブン太だった。
勢いをつけるべく、湯呑みに残っていたお茶をぐいと一気に飲み干した彼は、
手の甲で口許を拭い、その後トレイの上に乗せてあった紙パックの牛乳に手を伸ばす。

 「柳生の事なんだけど」

口火をきった相手の横で、仁王はのろのろと変わらぬ速度で手に持つスプーンを口へ運びながら、
皿に盛られたカレーを面倒臭そうに端へと寄せていく。無表情。無反応。気持ち悪いな、とブン太は思った。
以前、自分が柳生の名を口にした時、奴は面白半分にしろ少なからず感情のこもった目を向けてきたのに。
何かが、あの時とは違っている。ちいさな違和感。それはつい最近、柳生に対しても抱いた感情だった。

最初は気の所為だと思っていた柳生の不調は、
日に日に酷くなり、そして一週間が過ぎる頃には練習に支障をきたすまでになっていた。
真田や柳はもとより、この自分や、あろう事かジャッカルにも見抜かれたのだ。並みの調子の悪さでは無い。
それなのに、柳生は何も云わなかった。毎日のように部活に来ては黙々と与えられたメニューをこなしていく。
ただ、その中でいつもと違う事があるなら、それは柳生が部活の始まる前に仁王を探さなくなった、という事だ。
かつてあれだけ熱心に、部活に来ない不真面目な仁王の姿を探していた。それが、ふつりと無くなった。
目に見える程不安定な状態だというのに、彼の持つ生来の紳士的精神が仇となり、
部員には努めて平静さを取り繕おうとして、逆にそれが痛々しかった。
本来なら、当人である柳生に訊くのがきちんとした筋なのかもしれない。

けれど、ブン太は知っているのだ。
柳生の背後には必ずこの男が存在している事を。

怖いくらいに心酔してしまっている柳生と、あえてそのままに、けれどけして見返りを与えない仁王。
いびつで不安定で、どうしようもなく理解も出来ない関係を、この二人はずっと、続けている。
深入りするのは無意味だし、何も変わらないとブン太自身理解っている。
以前、何度も彼らの爛れた感情の片鱗を垣間見ては、苦い経験を味わってきたのだ。
理解ってはいるのだけれど、放ってもおけない。
どういう形であれ一度は関わってしまった以上、
結局見過ごす事が出来ない自分の損な性分をひしひしと後悔しながら、
ブン太は尖ったストローをパックの穴に突き刺した。

 「あの調子の悪さ、半端ねーぞ」

聞いているのかいないのか、隣で頬杖をついている仁王がもう片方の手で、
食べ終えて空になったカレー皿の表面にスプーンを押しつける。カツ、カツと擦れる硬い音が耳に障って不快だった。

 「特にダブルスな。お前だって気づいてんだろ」

気づいてないなんて云わせねえぞ。ジロリと仁王を睨みつけると、
男はやはりつまらなそうな顔でだらしなく頬杖をついたまま、緩慢な動作で皿を擦るだけだった。
口で弄する詐欺師のクセに、徹底的に無視か。チ、と乱暴に舌打ちし、伸びたストローに噛みつく。
胸の中を渦巻いている、腹立たしさとささくれだった気持ちが、喉を過ぎていく牛乳のまろやかさに少しだけ柔らかくなった。
ダブルス。ブン太はもう一度口の中でその言葉を呟く。ダブルスが、本当に酷いのだ。
これが常勝立海テニス部の、天下のダブルス1なのか、と思わず天を仰いで嘆きたくなる程の惨状。
理由は簡単、敗因も至ってシンプルだ。彼らは試合中、目も合わせなければ口も聞かない。
意志の疎通が全く無い、コミュニケーションの欠如しているダブルスなんてもうそれはダブルスなんかじゃない。
そんな単純な事が理解出来ない二人では無いだろうに。
否、以前は出来ていたそれらがこの一週間を境に消滅したという今この現実が不自然なのだ。
目も合わせず、口も聞かない。そもそも会話が成立していない。
そして静かにけれど確実に、どこかがおかしくなり始めている柳生。
二人の間に、何かがあった。つまりはそういう事、なのだろう。

 「柳生に、何云ったんだよ」

もしくは何をしたのか。
我ながら余りにも推測の域を出ない問いだったが、構わずぶつけてみた。
今更本心を隠すだけ無駄だし、こういう手合いには回りくどく云っても逆に裏をかかれるだけだ。

 「べつに」

隣から返ってきたそっけない声に、少しだけ驚く。
絶対に無視されるだろうと、ブン太自身半分諦めていたからだ。
思いもよらない、しかし箸にも棒にも引っかからない返答を受け一瞬言葉に詰まったが、なんとか応戦する。

 「って、お前が何か云わなきゃ柳生があんななる訳ねーだろ」

その言葉を聞いた仁王が、ゆっくりとブン太を見る。
初めて正面から合う視線。長めの前髪から覗く切れ長の瞳は、酷く醒めた色を滲ませていた。

 「だとしても、それをお前に云う必要はねーだろ」

わざと相手の放った口調に似せて、仁王はそう云うと口角を軽く引き上げ薄く笑った。
ブン太の身体が微かに強張る。そんな様子を眺めながら、仁王は雑な動作でスプーンを皿へと放り投げた。
カシャン、と響く金属音。

こいつは嫌いだ。大嫌いだ。
チームメイトで無かったら絶対に口なんてきかない。
おそらく相手もそう思っているのだろう。こちらをきつく睨みつけてくる両眸は、敵意を隠そうとしない。
そういう面ではある意味似た者同士なのか?と思ったがその考えに薄ら寒くなった。
そもそもどうしてこんなに自分と柳生の間に介入してくるんだ。柳生も大概鬱陶しいが、こいつも輪を掛けて鬱陶しいと思う。
丸井が柳生の名を呼ぶ。丸井が柳生を可哀想だという。
何も知らないクセに。

柳生の事を、知らないクセに。

ああ、苛々する。
ガタン、と仁王が椅子を蹴って立ち上がる。
食堂内に大きく鳴り響いたその派手な音に、
数人の生徒がそちらを振り返ったが、彼は無視してトレイを持ち上げた。
会話を強制的に中断し、踵を返した背中には、怒りの感情が露骨に漂っている。
相手がとった突然の行動にびくりと身体を竦ませたブン太は、それでも口を開き掛けたが、
先程の、牽制にも似た言葉と皮肉の混ざった笑みに気圧され、云うべき言葉がどうしても見つからなかった。
逡巡している間にも遠くなっていく背中、揺れる一筋の銀髪を視野に収めたブン太は、
心の奥にわだかまる後味の悪さをごまかすように中身を飲み干すと、空になった牛乳パックを力一杯握り潰す。

 「……くそ、いつかぜってー殴る」

口走った後、この悪態は天才的では無いな、と少しだけ後悔しながら。



■■■



 「…それなら、こちらの参考書の方がいいかもしれませんね」

ぎっしりと書籍の詰まった本棚から人差し指と中指で器用に一冊だけを抜き取ると、柳生は慣れた手つきでページをめくる。
彼のすぐ傍に立っていた赤也はひょいと背後からそれを覗きながら、楽できるのがい〜です、と呑気にそんな事を云った。

 「学習はある程度の反復ですから、楽をすればその程度の点数しか取れませんよ」
 「先輩、厳しい」
 「当然の事を述べたまでです」

俯いていた所為で僅かにずれてしまった眼鏡をそっと押し上げながら、柳生は、どうしますか?と後輩に尋ねた。
放課後。次の部活休みの日に、参考書巡りにつき合って欲しいと珍しく殊勝な顔つきで赤也に頼まれていた柳生は、
約束通り部活の無い今日、こうして彼と共に学校の周囲にある数件の書店に足を運んでいた。
わがままな後輩の要望や学習レベルに沿ったものを膨大な参考書や問題集の中から選んでいく作業は、思いのほか楽しかった。
紙とインクの匂いに囲まれて、文字を追い、赤也と話をする。それだけで心が少し安定した。
おそらく、それ以外何も考えなくて済むからなのだと思う。目先の事だけに集中して、逃避して。
何の解決にもなっていないのは柳生自身痛い程理解ってはいたが、連日の部活で精神が疲弊しきっていたのもまた事実だった。
絶対に合わない視線。自分に対し開かれる事の無い唇と、紡がれない言葉。
存在をまるごと拒絶されるその扱いは、今まで従順に守ってきたどの「命令」よりも辛かった。
部員の皆も、日に日に身体の動きが鈍くなっていく自分に、きっと気づいているのだろう。
あからさまに苦言を云われなかったが、逆にそれが苦しくて、焦燥感に苛まれる。
けれど、どうする事も出来なかった。どうしたらいいか分からなくて、柳生はそんな自分自身を持て余していた。
暗闇の中でいくらもがいても救われない。一筋の光すら、掴む前に失ってしまったのだから。

 「そーっすね…じゃあこれにしようかな」

赤也の声に、意識が現実へと引き戻される。
顔を上げると、指で顎の辺りを掻きながら眉を寄せ、うーんと少し考えるそぶりを見せた赤也は、
生真面目な先輩が自分の為に選んでくれた参考書を手に取ると、じゃ買ってきますね、とレジの方に歩いていった。
その後ろ姿を眺めながら、柳生は微かに息を吐く。
店内に満たされている穏やかなざわめきは心地良く、やはりついて来て良かったと改めて思った。
中身を見る為出してあった数冊の参考書を元の棚に戻し、
ついでに自分用にも何か購入しようかと手を伸ばした頃、会計を済ませた赤也が茶色の紙袋を小脇に抱え、戻ってきた。

 「お待たせしましたー。あ、柳生先輩も見ます?」

その動作に気がついたのか赤也が軽く両眉を上げ訊いてくるが、
いいんですよと首を振り、持ち上げていた腕を戻した。

 「おかげでいい本買えました。俺一人じゃぜってー無理だったから」

ありがたいっす。
そう云って笑うと、赤也はペコリと背を丸めお辞儀をする。
部活中は年齢差を感じさせない口調と攻撃的な態度を崩さない彼だが、
こうして見るとやはり年相応なのだな、と柳生は心の中で妙な感心をする。

 「こちらこそ、お役にたてて光栄ですよ。それに今日は、楽しかったです」
 「ほんとですか?」
 「ええ」

じ、と赤也が、微笑みながら頷く正面の柳生を見据えた。

 「柳生先輩」

突然、真剣味を帯びた声で名前を呼ばれ、制服越し、柳生の身体が微かに強張る。
この、いつもの後輩らしからぬ硬い声音から予想される内容は、きっと良いものではないのだろうと、本能で察したからだ。
音も無く、ゆっくりと下降していく気持ちはもう止められない。

 「…はい?」
 「別に、これは、嫌なら答えてくれなくてもいーんです。けど」

ていうか、こういうの訊く俺が一番ヤなんですけど、
とやたら複雑めいたすっきりしない前置きをして、赤也は一瞬逸らしていた視線を、まっすぐ柳生に差し向けた。
対する柳生は少しだけ首を傾けている所為か、眼鏡が薄く反射して表情がよく見えない。

 「仁王先輩と、なんかありました?」

背筋がじわりと粟立つ。
その名前を聴いただけで、耳で鼓膜で脳で認識するだけで、全身の血液がすうっと引いていくのを感じる。
自分の変化に一番驚いたのも、自分だった。別々の場所に居るのにこんなにも、彼は私に影響を及ぼすのか。
寒いのか暑いのか良く分からない、なのに指先が小さく震える。仁王くん。こんなにも強く。

 「仁王くん、とは」

近づくな。
金輪際、俺に話し掛けるな。

 「なにもありませんよ」

笑顔で答える。
それを聴いた赤也は少しだけ怪訝な表情を浮かべたが、柳生は静かに言葉を続けた。

 「何も、ないんです」

そう。
何も。
あの時下された「命令」はいつ解かれるのか分からない。
もしかしたら、彼はとうに忘れているかもしれない。あの時、向けられた背中できっぱりと云い渡された決別。
何度好きじゃないと云われても、何度酷い目に遭わされても、「そこ」には居ても良かった。
だけどもう、彼の傍にも居られない。話す事さえ。きっとこんな自分に飽きたか、でなければ嫌気が差したのだろう。
改善の余地や、チャンスも与えられない程に。
柳生は、あの日からずっとぐにゃぐにゃとした地に立っているような、
現実感に乏しかった感覚が、今ようやく少しだけクリアになった気がした。

そうか。
何もないのだ。
彼と私の間には。

もう何も。

 「帰りましょうか、切原くん」

柔らかな声音で柳生が退出を促す。
名を呼ばれ我に返った赤也は、しっかりとした足取りで先を歩いていく先輩を慌てて追いかける。
受け答えも反応も、いつもの穏やかで紳士的な柳生そのものだ。なのに変だ。なにか、どこか。
もしかして地雷を踏んだか?やはり「仁王」という名はうかつに口にしてはいけないキーワードだったのか。
以前、委員会で遅くなった時に部室で見てしまった光景は、随分時間の経った今でも思い出せばわりとへこむ。
かといって、部長達のように完璧な見ぬふりも出来ない。けれど丸井先輩のように踏み込む気もさらさら無い。
こんな自分の中途半端さが、もしかしたら柳生を傷つけるかもしれないと、そう思っても止められなかった。
柄にも無くこんなお節介まがいの事をしてしまう程には、自分はこの人の好い先輩に純粋な好意を寄せているのだろう。
絶対に近づかない、ノータッチを決め込もうと、思っていたのに。
前を歩く柳生の姿勢の良い後ろ姿を見つめながら、赤也はひっそりと暗澹たる想いに苛まれた。

これじゃあ丸井先輩を、笑えない。





■了■

 

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そして巻き込まれる赤也。