キス



ある筈のものがない。

当たり前だったものが消失した時に気づくそれは、真実か。それとも。



頬に、痛みにも似た冷ややかな風があたる。
その度揺れて肌を擦っていく髪が煩わしかったが、仁王はそのまま歩く速度を緩めず部室への道程を急ぐ。
沈んだ太陽。光が失われとっぷりと周囲を支配する闇は、
彼の目の前で次第に形を変え、黒い帽子の下から覗く険しい瞳を思い出させた。

練習が終わり、呼び出されたコート脇で真田から云い渡されたのは、柳生と組んでいたダブルスの解消だった。
たるんどる、と更に短い常套句まで追加され、まあ、それもそうかなと珍しく素直に思った。
実質、自分達のダブルスは云い逃れが出来ない程、酷い有り様だったからだ。
こんな状態じゃレギュラーもヤバいかもしれん、と頭の片隅でぼんやり考えたが、もうどうでも良かった。
ものごころついた頃から何年か自分の時間を費やし捧げたとはいえ、さほど「これ」には執着していなかったし、
仁王の中では幸村にダブルスの打診を受けたあの時から、テニスに対してある種の諦めが存在していたからだ。
夕暮れの中で、先程から沈黙が支配している場の重い雰囲気を変えるように、
真田の背後に控えていた柳が会話の糸口であるノートへ視線を落とすと、小さく咳払いをして声を掛ける。

 「お前達のコンビネーションが現状のままであれば、全国で勝ち抜く確率が大幅に低くなる」

だからあっさりお役御免。とでも云いたいのだろうか。
ページをめくる乾いた音を聴きながら、仁王は醒めた目で、手にした紙面から顔を上げず淡々と喋る柳を眺めていた。
データ結果から打ち出された整合性のある彼の話が途切れるのを待って、
次に生まれる沈黙を厭うようにユニフォームのポケットに突っ込んでいた片方の手を出すと、ひらりと持ち上げ踵を返す。
その動きで、結んだ銀髪が肩口で軽く翻った。

 「分かったよ、それに従う。あいつにも伝えといてくれ」

柳生。

は、このダブルス解消をどう受け止め、一体何を想うのだろうか。
言葉にするのも嫌だったから名は避けたのに、口に出した瞬間少しだけ思い出した。
けしてぶれない真っ直ぐな視線。感情の見えにくい平坦な声で自分を好きだと云う柳生。
鬱陶しいあの視線とトーンの変わらない声が傍から消えて無くなって、もうどれくらい経つのか分からなかった。
探しにも来なくなったから。時間の流れも日にちの感覚もなんだか酷く曖昧で、
まるで間に分厚い壁を一枚隔てているかのように、音も無く色の無い日常が仁王を残し過ぎ去っていく。

 「…?聞いていないのか、雅治」

微かに声音が変化した柳の口調に、ゆっくりと振り返った。
そのまま仁王が軽く眉を寄せると、柳もそんな彼を不可解そうに見つめている。
そして、横で両腕を組んでいた真田から重い口ぶりで告げられた真相に、
自分でも理解不明の感情が、ぐらりと奥から身体を揺らした。



ノブを捻り、部室のドアを乱暴に開ける。
ばん、と建て付けの悪い扉が鈍いきしみと共に放つ派手な音。
室内の照明の眩しさに一瞬片目を眇めたが、暗闇から抜け出した仁王の視界は、捜し求めていた相手をきっちりと捉えた。
長机を挟んだ所に設置してあるロッカーを前に、ユニフォームから制服へと着替えを済ませた柳生。
突然の物音に顔を上げたが、仁王の姿を認識するやいなや、反射的にガタン、と立っていたその場所から離れる。
出入口は仁王が塞いでいる為、部室の奥しか行き場が無いのか、それでも頑なに向けられる姿勢の良い背中に、
仁王はジリ、と何処か灼けつくような感覚に襲われた。
ああそうか。云ったもんな近づくなって。
それを今でも忠実に守っているバカな柳生。その愚直さはいっそ哀れだ。

 「柳生」

名前を呼ぶ。返事は無い。

 「やーぎゅう」

再び呼ぶが、やはり返事は無かった。
金輪際、俺に話し掛けるな。この命令も、未だ奴の中では有効なのか。
今となっては逆に仇となってしまったそれに、仁王は微かに苛つきながらがしがしと銀髪の頭を掻いた。
狭い部室内で、それでも最大限に距離のとれる一番隅のロッカーの傍に、柳生はこちらに顔を背け佇んでいる。

 「ダブルスさ、解消しろって。真田に云われた」

たるんどる、ってさ。云いながら、何故か口許に緩い笑いが浮かんだ。
本当に、不真面目な部員だと我ながら思う。練習さぼるわ遅刻早退当たり前だわ。
そんな自分に、今まで副部長である彼の雷が本格的に落とされなかったのは、柳生が居たからだ。
見える部分で、そして自分が知らない部分でもフォローしていたから。
その事を、知らなかった訳では無い。知っていたから図に乗った。
困らせてやりたかったのだ。その完璧で見事なまでに崩れない表情を、歪ませてやりたかった。

 「お前から頼まれたんだって。ペアを解消して欲しいって。聞いてないのかって云うんだ、俺に」

場違いに明るい声が室内で空虚に響くが、柳生は俯いたまま口を噤み黙っている。
仁王はゆっくりとそんな彼に音も無く近づいていった。
少しずつ、時間を掛けて狭められていく距離に、未だ柳生は気づいていない。

 「聞いてねえよ。なあ柳生?」
 「……」
 「お前俺に一言も、そんな事云ってねえもんなあ?」
 「……」

ハーフパンツのポケットにだらしなく両手を突っ込み、
仁王はいつもの格好でのろのろ靴底を引きずりながら距離を縮める。
頭の芯がどろどろと、溶けそうに熱い。それなのに胸の奥は怖いくらい冴えていた。
ペアを解消する?ダブルスをやめたい?あれだけ好きだと、必要だと、願ったクセにお前はその手を離すのか。

 「あー、もう茶番はナシだ。お前に云った事、全部取り消してやるよ」

ポケットから両手を出し、そのまま肩を竦めて見せて、仁王が口の端を引き上げ笑う。
その言葉に反応した柳生が弾かれたように顔を上げたが、
いつしか間近になっていた仁王の姿にギクリと身体を強張らせ、すぐに視線を逸らせた。
じわりと背中に冷たいものが浮かんで伝う。逃げられない。

 「だから喋ってみ。柳生」

伸びてきた左腕は咄嗟に背けた柳生の顔を通り過ぎ、無遠慮に白い首へ触れる。
掌で、そして骨張った指先で薄い皮膚を撫でられた。されるがままの柳生は、ただこくんと小さく息を呑むしかない。
自分の指のすぐ真下で、隆起した喉仏が上下に動く感触を、そこに浮いた血管を眺めながら仁王はじっくりと愉しむ。
透明なレンズ越しに見える伏せられた睫毛は微かに震え、それは一層彼の中の嗜虐心を煽った。
恐怖に竦んでいるのか、それとも嫌悪か。
どっちでもいい。久々に触れる柳生は本当で、きちんと実在するものだった。

 「……は、もう、何も無いのでしょう…」
 「?」

聞き取れない程の声で、柳生が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
喘ぐように浅い呼吸。その度に、触れた喉を通して伝う細やかな振動。

 「仁王くんと私の間には、もう…何も…ない筈です」
 「何も?」
 「だから、先程も、私に与えた全ての言葉を撤回したのでしょう?」

仁王から視線を逸らせたまま、けれど身を切るように苦しげな表情を浮かべながら柳生は呟く。
自分は一体何をやっているのだろう。何を云っているのだろうか。こんなのはまるで拷問だ。
傍に居られなくしたのは仁王の方なのに、だからダブルスの解消を申し出たのに。
何故か事態は、坂道を転がり落ちていくように悪くなる一方だ。
命令は言葉。言葉は自分と仁王を縛る唯一のものだった。けれど、彼はそれすら無しにした。
茶番だと云って取り去った。もう、本当に彼と自分の間にあるものは、何もない。
云いながら、柳生はますます絶望的な気分になる。ましてやこちらを見据える仁王の顔なんて、怖くて見る事など出来なかった。
それなのに、首に触れる指の感触がいとおしくて泣きたくなる。自分のものである筈の感情が、酷く錯綜して見失いそうになる程。

 「何もない?」

仁王が掠れた声で訊き返す。相変わらず柳生はこちらを見ない。
何もない。だから、もう、無関係だというのか?
目の前の男が放った言葉がいまいちうまく理解出来ず、仁王はきつく眉を顰める。
一年の冬から今までずっと、ずっと煩わされてきた。
想いの強さに潰されそうで、その重さに辟易して、何度拒絶しても何度酷い目に遭わせても、
一度だって逃げ出さず自分だけをひたすら信じていた。従順で、一途で、まるで犬のような男だ。
あれだけ自分だけを想い、自分だけを好きだと云い、そしていつの間にか自分の中に深く入り込んで、
ぐだぐだに甘やかして。それなのに、犬はもう何もないんだと云う。自分と柳生の間には、何も。

 「ふざけるなよ、柳生」

気がつけば、首にあった仁王の手は柳生の胸倉へと移動し、掴み上げて乱暴に彼を硬いロッカーへ押しつけていた。
ドンと鈍い振動と共に背中に冷たい痛みが走り、柳生が一瞬耐えるように目を細める。

 「勝手になくすな。無かった事にするな。そんなの俺が許さねえ」

あの、怖いくらいの眼差しも。耳にこびりついて離れない声も。
全部無くなるなんて。目の前から消えて無くなるなんて。そんなのは、絶対に許さない。
感情が疾走する。まるで自分のものでは無いように、別の何かに突き動かされるように。
柳生の胸倉を掴んだまま、仁王は更に顔を近づけた。

 「に…」

おうくん。

名前を呼ぼうとした唇は、名前の持ち主によって塞がれる。
息が、出来ない。何が起こっているのか、理解らない。
まばたきを何度も繰り返して、息苦しさと触れる他人の体温に、
嘘ではない事を実感して、それを認識した瞬間、柳生の身体から一気に力が抜け落ちた。
がくん、と砕ける両膝。不安定な身体を抱きとめるよう咄嗟に仁王が腕の中に引き入れたが、間に合わず結局二人で床に崩れた。

 「……っ、…は」

首を振ってなんとか唇を離した柳生が、口から必死に息を吸う。
そんな彼の顎を無理矢理掴むと、構わず仁王は再び口づける。今度は逃げられないようなキスを。
カチャリと、角度を変えるたび頬や目元にぶつかる硬い眼鏡が邪魔で仕方がない。
けれど、熱に浮かされた頭はそれを外す事すら思いつかず、ひたすらキスを繰り返す。
互いの吐息と、自分の心臓の音と、たまに生じる水音と、知覚出来るのはそれだけ。
二人を取り巻く世界は、ただそれだけだった。



我に返るのはいつも唐突で、例えばそれは、常に変わらず時を刻み続ける秒針の音だったりする。
突然耳に飛び込んできたその音に仁王は顔を上げたが、
嵐のような行動から一体どれくらいの時間が過ぎたのか、皆目分からなかった。
未だ熱をひきずる重い頭で、それでも視線をのろのろと戻せば、
至近距離、ぼんやりとこちらを見つめる柳生と目が合った。
少し髪が乱れて眼鏡も微かにずれているが、紛れもない柳生だ。
ぼんやりしているとは云え、表情はいつもと変わらず笑いもせずに、彼はそのまま涙をこぼした。

 「……」

なんで。
そこで泣くんだ。

仁王は何か喋ろうとしたが、突然の涙に予想以上に面食らってしまって、
結局間近で声も無く泣く柳生を呆然と見つめるしかなかった。嬉しいのか悲しいのか、それはどっちの涙だ。
しばらく眺めた後、ゆるゆると腕を伸ばし、濡れた頬に指先を這わせる。柳生の肩が小さく震え、しゃくり上げた。
どっちだっていいか。仁王は涙を撫でながら思う。こうして触れる柳生は本当で、消えずにきちんと実在するのだから。





■了■

 

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そして二人で共倒れ。