勝敗
嘘ばかりついた。
本心を知られる事が、なにより一番怖いから。
翌日。ダブルス解消の申し出を副部長である真田から正式に受理され、
ベンチの傍で一人練習前のストレッチを行っていた柳生は、全身がようやく温まった頃、
ゆっくりと黒いパワーリストを手首にはめて立ち上がり、同様にストレッチが終わったのか、
ばらばらと移動を始めた大勢の部員達に紛れるようにして、そのままテニスコートを後にした。
手をかざして空を仰ぐと、雲一つ無い紺碧の晴天が細めた瞳に入る。
少しだけ、頭が重い。
結局、昨日は一睡も出来なかったからだ。
あれから、どうやって部室を出て、バスと電車を乗り継ぎ自宅まで帰ったのか、全然記憶が無い。
まるで全てが曖昧で、ふわふわと取り留めのない夢を見ているような。
そんな中で確かに覚えているのは、頬を濡らす冷たい水の感触と、そこに触れる仁王の指の温かさだけだった。
仁王くん。柳生は砂利の混ざった土を踏みしめながら、部活に来ていない相手の名を、ぽつりと呟く。
あれは、一体何だったのだろう。どうして彼は、自分にあんな事をしたのだろう。
どれだけ考えても理解らない。考えれば考える程思考は絡め取られ、複雑な袋小路に陥っていく気がした。
まるで自分を憎むような、鋭い眼差しで射抜かれて、
そのまま喰われてしまうんじゃないかというくらい強く、乱暴に唇を重ねられた。重ね合った。
そろり、と柳生は指先で乾いたその部位をなぞるように触れる。
息苦しさと共に感じた熱は既にそこから失われてしまっていたが、
あの時くらつくように自分を襲った目眩も、足許が覚束無くなるような感覚も、
引き込まれた腕の強さも、きっと身体の隅々まで浸透してしまっている。
あの後、仁王は何も云わなかった。無言で、涙を流す自分を笑いもせずにじっと見ていた。
静寂の中で自分の嗚咽だけが響いていたあの時の情景を思い出し、
奇妙にいたたまれなくなった柳生はその気持ちをごまかすように、眼鏡のブリッジに中指を掛ける。
一体、どういった感情が自分の心の内から発露して涙腺を刺激したのか、柳生自身理解出来ずにいた。
嬉しかったのか、それとも悲しかったのか。おそらく、そんな単純な言葉では計り知れないものなのだろう。
唇が離れた瞬間、自分でも知らなかった様々な感情が塊となり、胸の奥からせり上がってきて、気づけば涙腺が決壊していた。
涙など、もう、誰にも見せる事は無いと思っていたのに。
一番見せたくない相手の前でその姿を晒してしまうなんて、本当にどうしようもなく、いたたまれない。
様々な部室が並ぶクラブハウスの脇を通り過ぎ、
そのまま渡り廊下でつながる校舎の反対側に位置する、離れた特別棟へ向かう。
特別棟のうらぶれた建物を折れ曲がって、鍵が壊れてそのままになっている扉に手を掛けると、
それはたやすく開かれ部外者である柳生を迎え入れた。
薄く埃のかぶった廊下は、歩く度ミシミシと厭な音をたてるが、彼は気にせず目的の場所に進む。
窓から差し込む陽光のおかげか、風の入らないここは外よりも幾分気温が高いような気がした。
ひんやりとした柱に掌を這わせ、歩きながらゆっくりと教室の数を頭の中で数える。
1、2、3、4、…5。
古ぼけた扉の前でぴたりと立ち止まると、柳生は微かに速度の上がった鼓動を整える為、小さく息を吸った。
「仁王くん」
吸った息を言葉にして。
そのまましばらく待ったが返事は無い。
密やかな吐息も、戯れのような笑い声も聴き取れなかった。
微かに逡巡した後、しかし柳生は意を決して扉に手を添えゆっくりと動かす。
ガラガラと調子外れの音が、がらんとした校舎内に空しく響いた。
今はもう使われていない空き教室は、二人が初めて出逢った場所であり、
その後仁王と彼がつき合う女生徒達、そして柳生との密会場所となった。
「仁王くん」
薄暗い教室の一角、窓際の机に上半身を突っ伏すようにして、仁王はそこに座っていた。
扉を開ける音にも、名前を呼ぶ声にも全く反応しない。眠っているのだろうか。
疑問と共に、柳生の胸の中で安堵感がじわりと広がる。
仁王くんが居る。ちゃんと、ここに。存在している。
「…仁王くん?」
もう、ダブルスは解消したのだから、探す必要など無い。彼からの命令も全て撤回されたのだ。それに縛られる事も。
けれど、ひとつだけ。柳生は普段と変わらぬ口調で名を呼びながら、微動だにしない仁王の居る場所へ、ゆっくりと近づいていく。
ひとつだけ、あの口づけの意味を、知りたかった。
「仁王くん」
「何度も云うな、聞こえてる」
机に突っ伏したままの状態で、顔を上げずくぐもった仁王の低い声がそれに答えた。
聞こえているなら返事をして下さい、と云えば、寝てたんだから出来ないと矛盾した返事が聞こえてくる。
どちらが本当なのか、それとも全部嘘なのか、自分には理解する術を持たなかったが、構わず彼の傍に立った。
猫のようにしなやかな仁王の背中は、ぐんにゃりと力無く重力のなすがまま机に沈んでいる。
「こんな所で眠ったら、風邪をひきますよ」
「眠れなかった。昨日から、ずっと寝れねー」
不機嫌な声で返事をしながら、何を云っているんだろうと仁王は寝不足の頭でぼんやり思う。
キスをして、何故か泣かれて、正直引いた。それなのに目が離せなくて、そればっか思い出して、
挙げ句眠れなくなって、ここなら眠れると思ったのに、張本人の柳生が来て。
ペアは解消した筈なのに、もう解放してやったのに、どうして探しにくる。俺を見つけるんだ。
これじゃあ逃げられないじゃないか。半ば自棄にも似た諦念が彼の胸を苦くよぎる。
これじゃあこの気持ちから、逃げられないじゃないか。
「私も眠れませんでした。どれだけ考えても答えが出ず、気づけば朝になっていて」
柳生が無機質な声で淡々と喋る。
背後から聴こえてくる、いつもとトーンの変わらない希薄なそれを感じながら、しかし仁王は黙ったままで次の言葉を待っていた。
「ですから、貴方に伺おうと思って、ここに来ました」
「うかがう」
「ええ。何故あの時、貴方は私にキスをしたのか」
自分の心臓が、彼の放つ平坦な声に掴まれる、そんな錯覚。
同時に柳生の泣き顔まで脳裏に蘇り、困惑した仁王が眉を寄せのろりと顔を上げる。
振り返ると、表情のどこか欠落したいつもと変わらない柳生が佇んでいた。
よく見れば、眼鏡の奥から覗く瞳がやや赤い。下瞼が少し腫れているのは、あの時泣いた所為だろうか。
「それは…、俺が俺に訊きたい」
あんな、衝動的なキスに理由なんて、きっと皆無だ。
あの時の自分の行動は、そして柳生の言動は、真実をねじ曲げ穿った結果、
救いようの無い程捻れて爛れて正気の沙汰では無くなっていた。
そんな中で交わされたキスは、想いは果たして本物なのか理解らないし、本当はもう、真偽はどうでも良かったりした。
「仁王くんも、分からないのですか」
仁王から返ってきた、答えにもなっていないその答えを聞いて、
柳生が微かに首を傾げ、顎に手を遣る。何かを考える時の癖だ。
疑う事を知らない、自分の云った全てを信じる柳生。煙に巻くのは簡単だ。
あれはただの冗談だと、云ってしまえばそれで済む。だけど。
「分からん。が、絶対無かった事にすんなって思った」
「……」
「このキスも、この俺も、お前の中で無しにすんなよ」
だけど、もう、疲れた。
嘘をつくのも騙すのも。自分の心を隠すのも。
余りにも柳生がしつこいから。余りにも柳生が、真っ直ぐだから。
「…それは、どういう…」
視線の先に佇んで、じっと聞いていた柳生はようやく口を開いたが、
上手く言葉がつながらないのか、すぐに云い淀んでしまう。仁王は座った状態で身体を反転し、
目の前で無表情のまま躊躇っている彼を眺めながら、椅子のへりに頬杖をつくと、そのまま静かに問い掛けた。
「柳生、俺の事好き?」
切れ長の瞳に、いつも浮かべる揶揄の笑みは無かった。
突然の質問と、相手の真剣な眼差しに柳生は不意を突かれたのか一瞬固まってしまったが、
顎に遣った指先を唇へ這わせじっと何かを思案した後、一拍置いてはい、と頷いた。
「好きです」
変わらない言葉。
三年間、絶えず云われ続けたそれを再び耳にした仁王は、
かつて常に抱いていた嫌悪とは別の感情が背筋の奥からゆっくり這い上っていくのを感じた。
緩やかな諦めと、底知れぬ安堵。自分の胸を支配するそれは、複雑過ぎて絡まり合って酷く不明確である事は確かだ。
それでも、何かが違う。本能が、反応する。
教えたのは自分だった。その感情が何なのか、それに名前をつけたのも。
それなのに柳生はいつしか、刷り込みのように受け入れたその言葉を、柳生自身のものにしていた。
表情が、口調が変わらないからといって、感情が揺れない訳ではない。柳生の感情は揺れ続けていた。
表に出すのが不得手なだけで、より深く、ひたすら強く、自分を想って。
「なら、ダブルス解消取り消して?」
その言葉に、柳生が僅かに瞠目する。彼の真意が分からない。
また、自分は知らない間に翻弄されているのだろうか。既に張り巡らされた彼の罠に、引っ掛かっているのだろうか。
「…それは、命令ですか?」
訊ねた声は酷く震えて情けなかった。
しかしそれを聞いた仁王は力の抜けた顔でにやりと笑うと、ゆっくり首を振ってみせる。
「いいや、単なる俺のわがまま。選択権はお前にある」
だからお前の好きにしていいんだ。
そう云って主導権を放り出した彼は、席から立ち上がり、ぐんと大きく伸びをした。
背中で揺れる一束の銀髪。カーテンの隙間から漏れる光にそれが反射して、眩しさに思わず柳生が瞳を細める。
ダブルスを、組めるのか。一緒に居てもいいのか。また彼と。その権利が自分の手に。
視線を落とし、開いた掌を見つめながら、柳生は俯いたまま静かに告げた。
「貴方のわがままを、私が無視出来る訳、無いでしょう」
たとえこれが罠かもしれなくても、嘘なのだと笑われても。真偽なんてもう、関係無い。
仁王雅治という人間を好きになった時点で、そんなものは全て無意味だと教えられたからだ。
これから先、自分が仁王の中の真実を探り当て、見抜く事が出来るのかどうかも理解らない。
再び手にした一筋の光を、また失ってしまうかもしれない。けれど、柳生は開いていた手をゆっくりと握り締め、確信する。
初めて出逢ったあの時からずっと、胸の中に在り続けるこの想いは、自分にとって揺らぐ事の無い真実だ。
そして、彼の言葉と、与えられた温もりがあれば、この想いを信じていける。
それがどんなに酷い言葉でも、その温もりに愛など無くても。
「仁王くん」
貴方を。
■了■
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三年越し、柳生の粘り勝ち?