柳生比呂士は、不可解な男である。



 「仁王くん」

全校集会を前に人がひっきりなしに流れる廊下で、呼ばれた主は一瞬自分の耳を疑った。
しかし聴き慣れた声は、喧噪の中だというのにすっと耳の奥に染み込んでくる。
自分を呼び止めた相手が誰なのかすぐに理解出来た。けれど仁王は振り向かない。
振り返って、その後どういう反応をすれば良いのか分からなかったからだ。
昨夜、柳生と喧嘩をした。
近年稀に見る酷い喧嘩だったと我ながら思う。
発端は一体何だったのか、今になってみればもうそれすら曖昧になり良く思い出せない。
おそらく九分九厘、自分の爛れた交遊関係が火種なのだろうが、仁王はそれを単に面倒だという理由で最初から正す気など無かった。
記憶の底に苦々しくこびりついているのは、口論の末、二人の間に寒々とたちこめていた厭な沈黙だけだ。
普段なら余裕で流せる相手の刺を含んだ言葉に何故かいちいち苛ついて、更に刺の増した言葉で返しては容赦なく傷つけた。
柳生は怒ると静かに冷える。胸の内をけして見せようとしない男だから、外見だけではどれ程の怒りを秘めているのか判断し難いが、
顰められたままぴくりとも動かない眉と頑なに引き結ばれた唇を見れば推して知るべしだった。

もう。

柳生は色の失せた険しい表情で昨夜、吐き捨てるように告げた。

もう、あなたとは口も聞きたくありません。

最後通牒のようなそれを聴いて、仁王は頭の中に質の悪い熱を蟠らせたまま彼の家を出た。
眼鏡の奥に潜む、こちらを見ない冷徹な瞳。
全身で自分を拒絶しているのだと理解した瞬間、一秒だって居られないと思った。
それなのに。何故こいつが傍に来て、名前を呼ぶんだ。
考えてすぐに分からない事は面倒くさいから放棄する。仁王は意識を振り切るようにそのまま廊下を歩き出す。

 「仁王くん、待って下さい」

声は自分の後を追いかけてきて背中にあたった。
それは少しだけ硬く尖っているような気もしたが、概ね普段通りだ。
自分の耳に引っ掛かっては落ちないそれを、周囲を取り巻くざわめいた喧噪の中へ無造作に沈めてしまえたらいいのに。
仁王は軽く天井を仰ぐと、ゆるゆると息を吐き出す。そして歩みを止めた後、意を決したように振り向いた。
そこには、数時間前顔も見ずに別れた柳生が立っていた。変わらない七三分け。変わらない楕円の眼鏡。
神経質そうな眉は、しかし昨夜のように顰められてはいない。
柳生は向けられた仁王の顔を見ると、おはようございます。と律儀に挨拶を寄越し、そのまま言葉を続ける。

 「本日、練習前に臨時ミーティングがあるので着替えた後も部室に残っていて下さい。これは柳くんからの伝言」

話し終えた後少しだけ息を継いで、更に柳生は口を開いた。
あれ程露骨なまでに険悪な雰囲気を纏わせていたのに、
目の前で何事も無かったかのように淡々と話す男を見ていると、まるでそれは仁王のありもしない夢で、
一連の出来事は嘘だったのではないかという錯覚にさえ陥りそうになる。

 「風紀違反者の反省文提出が今日までなので必ず出す事。これは真田くんからです」

それを聞いた仁王の口角が思わず下がる。やはりこれは現実だ。
何故なら昨夜、これと同じ事を柳生の口から聞いたからだ(ちなみに昨夜は“明日”までに提出だった)。
同時に柳生と相対しているという奇妙に張り詰めた緊張感も少しだけ緩んだ。
柳生は中指で眼鏡のブリッジをそっと押し上げながら、更に言葉を継ぎ足す。

 「あと、近い内に病院に寄ってくれ。これは幸村くんですね」

とん、と仁王の背中に何かがあたった。多分教室からホールへ移動する生徒の肩か腕だろう。
先程からも何度かぶつかられている。こんな廊下のど真ん中で流れに逆らうようにつっ立っている自分達の方が邪魔なのだろうが、
柳生は衝突をうまく避けているのか、人混みの中だというのに上体も揺れず姿勢良く佇んでいる。

 「……」

さっぱり分からない。
仁王は黙ったまま、銀色の後ろ髪に指を遊ばせる。
あれだけの喧嘩をしておいて、酷く傷つけ合って。口も聞きたくないと、そう云ったくせに。

 「お前、もう俺と話さん云うたじゃろ」

視線を逸らし床を見つめながら、ボソリと低く呟く。
それなのに、柳生の視線は追ってくる。見なくても気配で分かった。しつこい。本当に、一体どういう了見なんだ。

 「云いました。ですが部の伝達事項は別です」

予令が鳴る。柳生は更に何か云おうとしていたが、チャイムの余韻が止み、
再び人々の話し声が戻ってくるまで行儀良く待ってから、頃合を見計らってその先を続けた。

 「連絡網、仁王くんの前が私なんですよ。あなた昨日携帯電話の電源、切ってあったでしょう」

あんな事があってすぐに掛かってくる電話なんて、取れる訳なかろうが。
横を向いたままそう反論すると、取って下さいよ。と妙に決然とした返答が戻ってきた。
渋々柳生を見ると、呆れたような、それでいて少しだけ困惑したような微妙な表情を浮かべていた。
感情を持て余している時、この男はこういう不可解な顔になる。

 「緊急だったらどうするんです」
 「どうせ単なる連絡網じゃろ」
 「謝罪の電話かもしれないじゃないですか」

聞き分けのない自分に怒っているのか、それとも困っているのか。
柳生は相変わらず何を考えているのか分からない、そんな表情のまま、けれど真剣な声音で告げる。
人の流れがいつの間にか緩やかになっている。目の端で横切る生徒の数も減った。
そろそろ皆、ホールに集まっているのかもしれない。ぼんやりとそんな事を考えながら、再び柳生から視線を外した。

 「…そんなすぐ謝られてハイそーですか、て」

云いながら仁王は昨夜の諍いを思い出し、ジワリと厭な気持ちになった。
腹の立つ。何が謝罪の電話だ。あんなにも怒っていたくせに。しらじらしいったらない。
考えれば考える程ぬかるみにはまっていくような感じがしたが、仁王は鬱鬱とした思考を止められない。
こいつと居るといつもこうだ。感情が馬鹿みたいに動いて、また、引きずられてしまう。
あんなにも酷い言葉を、ぶつけて。俺を拒絶したくせに。

 「俺は信じられんし、お前の云うた言葉も忘れん」

絶対忘れん。
ふてくされたように仁王が呟く。
それを聞いた柳生はレンズの奥で微かに瞠目した後、
そのまま自身の顎にゆっくりと手を添え、正面に立つ男の方を眺めながら興味深そうにぽつりと告げた。

 「…仁王くんは、意外と執念深いんですね」
 「ほっとけ」
 「他の女性との口論もこうして覚えてらっしゃるんですか?」

これは皮肉か。否、罠か。仁王は髪を触っていた手を降ろすと、
ズボンのポケットに乱暴に突っ込んで柳生を軽く睨みつける。先程のような困惑の混ざった不可解な表情は既に消え、
彼は普段と変わらない完璧なポーカーフェイスを装っている。本当に腹の立つ。

 「お前だけじゃ、アホ」

こんなに腹が立つのも、イライラするのも、言葉ひとつで揺れるのも。
認めたくはないが、この男だから。柳生だからだ。
自分が放ってしまった言葉はある意味敗北宣言に等しかったが、仁王にとってそんな事はもうどうでも良かった。
踵を返して、中断していたホールへの道のりを歩き出す。全校集会など本当はサボりたい気分だったけれど、
柳生の規則的な足音が、当たり前のように後ろをついてくるから断念した。
遅れてしまいましたね、と斜め後方で涼しげな声が聞こえたが、無視して歩いた。
何がきっかけで、何で怒って、何を許せなくて。
今朝まで胸の奥に淀んでいた想いが、柳生の声を聞いている内に馬鹿馬鹿しくなって消えていく。
歩きながら仁王は再度、諦めたように天井を仰ぎ見た。
きっと、この男が自分を呼び止めた時点で、既に勝敗は決まっていたのだ。

 

 

□END□

  

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行動指定バトンより>呼び止められたら?