柳生比呂士は、情け深い男である。
部室の扉を開けると、見慣れた銀髪が視界に飛び込んできた。
柳生は出来るだけ音を立てないようそっと扉を閉めて、足音を忍ばせ自分のロッカーが位置する奥へと進む。
銀髪の男はテーブルを挟んだ向かい側の長椅子にくたりと寝転がったまま、こちらに背を向け動かない。
ありゃかなり落ちてんな。
とはブン太の談。
一緒に居るだけで汗かいた。
とはジャッカルの談だ。
二人は自分と入れ違いで部室を後にするところだったらしく、
これから足を踏み入れる柳生に、中にいる仁王の様子をそう語った。
そうですか、と神妙に相づちを打ちながらも、それは彼の頭の中ではある程度予想の出来ていた事だった。
関東大会決勝で敗者となった真田を殴った仁王は、全国大会決勝終了後、そのまま彼に同じ事をされたのだから。
余程制裁が嫌だったのだろう。自分の試合が終わった後、
仁王はレギュラー達のいるベンチに戻らずそのまま観客席の方へと避難して、徹底的に真田から遠ざかった。
しかし、大会が閉幕し学校に戻ってくれば逃げ場はもう無い。見ている方が思わず視線を逸らしてしまう程、
その瞬間はかなり大きな音がコート上に響いて。
そして仁王は、真田から渾身の平手を喰らったのだった。
黙々とユニフォームから指定の制服へ着替えを済ませ、残りの荷物を出してロッカーを閉めると、ギ、と金属同士が擦れるような鈍い音がした。
柳生はそのまま僅かに膝を折って上半身を屈め、すぐ横にある棚から救急箱を取り出すと、
持参したタオル巻きのアイスノンと共に、長椅子で力無く寝そべっている仁王の傍へ歩み寄って行く。
「仁王くん」
「……」
「手当、してあげますから。起きて下さい」
「……」
テーブルの傍にあった丸椅子を自分の方に引き寄せて、
その上に救急箱を乗せると、柳生は仁王が横になっている長椅子へ腰掛ける。近くなった銀髪を見おろしながら、再び声を掛けた。
「私に、あなたの狸寝入りは通用しませんよ」
そう告げて、金留めを引き上げ救急箱の蓋を開ける。
冷却スプレーや絆創膏など、無造作に詰め込まれた応急処置道具の中から、
他に何か役立ちそうな物はないかと指で探っていると、柳生の視界の端で仁王の身体がもぞりと動いた。
「…手当なんぞいらん」
「ちゃんと、こちらを向いて」
その指示を拒むように仁王は黙り込み、そのまましばらくの間微動だにしなかったが、
突然ンガ、と唸り声のような妙な音を口から出したかと思うと、観念したようにごろりと身体を仰向けにした。
露わになったその顔を覗き込んで、柳生は思わず苦笑する。左側の頬を中心にかなり腫れ、周辺が赤くなっている。
「…これはまた盛大ですねえ」
「あいつは加減ちゅうもんを知らんき、常に全力でやりよる」
最悪じゃ。と毒吐いて、仁王は仰向けのまま自身の額に片腕を乗せようとした。
しかし、額に落ちるより早く柳生がひょいとその腕を掴み、代わりにタオルで頑丈に巻いてある長方形型のアイスノンを仁王の手に握らせる。
「とにかく冷やして下さい。口の中は切れてないですか?」
「ない。…けど柳生、これ冷た過ぎ」
手渡されたアイスノンを柳生に云われた通り素直に頬にあててはいるが、
仁王はその冷気に耐えられないのか、仰向けの状態のままで器用に肩を竦ませ、嫌そうにきつく眉を寄せている。
温度の変化に敏感な彼は、暑過ぎるのも寒過ぎるのも苦手なのだ。
「ちゃんと冷やさないと、腫れが引きませんよ」
「んな事云うても冷たいもんは冷たい」
そう云うと思ったから、冷たさを緩和する為にタオルで巻いてあげているのに。
しかし、その事に関してあえて返答はせず静かにため息を吐いた柳生は、
傍に置いてある丸椅子の方に腕を伸ばすと、口を開いていた救急箱をパタンと閉じてしまった。
下方に見える仁王はその間もぐずぐずと何か文句を云っていたが、柳生が何も反応しなくなると、程無くして諦めたのか同じように静かになってしまう。
これは本当に、かなり参っているのかもしれない。
あの青学と、全国大会決勝という大舞台での再戦を果たして。
しかし二連勝の後に出場した彼を待っていたのは、今大会初めて喫する敗北だった。
ブン太とジャッカルの言葉を頭の片隅で思い出しながら、柳生はそっと、視線を彼の方に傾けた。
「もしかして、落ちこんでらっしゃいますか?」
「…やかましい」
瞬間ふい、と顔を横に背けられ、視線はあっさり撥ねつけられてしまう。
切れ長の瞳は銀髪に隠れ、その為表情が読めなくなってしまったが、構わず柳生は静かな声で続けた。
「終わった事を引きずっていても、何も始まらないと。そう仰ったのはあなたなのに」
誰も動けなかった中で、一歩前に踏み出した仁王。
真田に対し本気で制裁を行った後の部室で、苦々しく彼はそう呟いた。
誰だってあんな事はしたくない。出来れば穏便に済ませたいという空気を破ってそれでも手を上げたのは、立海の為。常勝を掲げるチームの為だ。
仁王は絶対に本心を教えてはくれない。けれど本当は誰よりも自分達立海を、
このチームの事を想っているのではないかと、柳生はあの出来事を経た今そう考えている。だから。
「私は、結果がどうであれあなたを誇りに思いますよ」
同じチームの一人として。三年間、志を共にしてきた者として。
柳生はそう呟いて、左手をそっと銀の髪に乗せた。
通常の日本人と酷くかけはなれた色を手に入れた代償なのか、それはけして指先に馴染もうとしない。
汗でしっとりと濡れた細くかたい髪をゆっくりと撫でれば、最初、仁王は微かに身じろぐような反応を示したが、
その後は長椅子の上で丸くなって柳生の掌を受け入れた。こうしているとなんだか大きな猫のようにも見えてくるから不思議だ。
柳生は仁王の髪を撫でながら、密かに思う。
同情でも制裁でも慰めでもない、自分が今彼に贈りたいのは純粋な賞賛だ。
それなのに、胸の奥では弱った彼をもっと甘やかしてしまいたいという衝動が顔を覗かせる。
そんな事をすれば、この均衡を保った関係が、崩れてしまうとお互いきっと理解っているのに。
想いを再び胸の奥底へと沈めるようにゆるゆると深い息を吐いて、柳生は目を閉じる。
視覚が閉ざされれば皮膚の感触がよりリアルになってしまう。彼の体温、かたち、吐息。それでも。
訪れた心地良い静寂の中、柳生は仁王から掌を離す事が、どうしても出来なかった。
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行動指定>いきなり頭を撫でられたら?