柳生比呂士は、生真面目な男である。



左腕に付けられた腕章と、小脇に抱えられた黒いボード。
校門の前に姿勢良く佇むその男は、上着の胸ポケットから少しくすんだ白銀の懐中時計を取り出すと、小刻みに動く秒針に視線を合わせた。
同時に校舎からチャイムの音が響いてくる。それが合図となったのか、男は懐中時計を仕舞い、右手をそのままペンへと持ち代えた。
周囲に立っている、同じように腕章を付けた生徒達も一斉に居住まいを正す。
二週に一度の恒例行事、遅刻違反者の取り締まり。ここからが柳生達風紀委員の仕事だ。
定時を過ぎても懸命に駆け込んでくる者は少なからずいたが、彼らを容赦無く校門前で立ち止まらせて、
一人残らず学年・所属クラスと氏名をチェックしていく。ボードに挟んだ用紙に数人の生徒名を記入し終えた後、
柳生はつと顔を上げて周囲を見渡した。

 「……」

常習を含めあらかた検挙し終えた感はあるのだが、少しだけ引っ掛かる事がある。
柳生はペンの頭でゆるりと顎を撫でしばらく思案したが、数人の後輩にこの場を任せ裏門の方に足を運ぶ事にした。
校門とは真逆の方向に位置する裏門は、一見通用口のように狭く生徒用玄関からも離れている為利用する者はほとんど居なかったが、
「こういう時」、つまり抜き打ちで遅刻違反者を取り締まる際に、風紀委員の立っていない裏門を迂回してチェックを逃れる輩も何人か存在した。
もちろんそんな事をするのは大体この学校のシステムや抜け道を熟知している最高学年なのだが。
柳生が裏門に辿りつくと、まさにその輩が狭い路地を抜け、生い茂る木々を避けながらこちらへ歩いてくる所だった。

 「あちゃぁ…タイミング悪う」

しかし正面に柳生の姿を確認した途端、男はさっさと諦めたのか歩く速度を緩め気の抜けた声を出す。

 「残念ですが遅刻です。生徒手帳を出して下さい。仁王くん」

対する柳生はにこりともせずに彼の傍まで歩み寄ると、腕を伸ばし容赦無く催促をする。
仁王は面倒臭そうに頭を掻くと、ほとんど中身の入っていない鞄の脇ポケットからくたびれた紺色の手帳をのろのろと取り出した。
それを受け取り、用紙へ名前を記入し掛けた柳生のペン先が程無くして止まる。

 「仁王くん、あなた今回で遅刻三連続ですから生徒指導室に呼び出しですよ」

違反者の書かれた用紙に視線を張り付けたまま、柳生が眉を寄せそう宣告する。
しかし相手からの反応が無い。不審に思って顔を上げれば、仁王は柳生を置き去りにしてさっさと玄関の方へ歩き出していた。
慌てて柳生は彼の後を追い掛ける。

 「聞いているんですか?今日の昼休みに生徒指導室に必ず来て下さいよ!」

背中にやや神経質な声がぶつかってくるが、仁王は気にせず適当に相槌をうってやり過ごす。
家を出た時点で既に遅刻を確信してはいたのだが、校門に腕章の群れが見えた為、急遽迂回して裏門に回った。
それなのに、よりにもよって柳生に見つかるなんてついてない。こんな事ならもっとたっぷり寝坊すれば良かった。
下駄箱の前で大きな欠伸をすると、急に肩をぽんと叩かれた。
振り返れば微かに前髪の乱れた柳生がじろりと鋭い視線をこちらに向けていた。

 「…いいですか、必ず来て下さいよ」

そう云って、生徒手帳が持ち主の手に戻される。
仁王は少しだけうんざりしたので、返事をせずに靴を履き替えた。今朝は朝からついてない。そう思いながら。

昼休み、昼食を終えた柳生は小型の風呂敷に弁当箱と箸筒を丁寧に包み、
それを鞄の中に仕舞うと、読書の時間を諦めそのまま席を立ち隣の教室へ赴いた。
喧騒と好き勝手にばらつく生徒達の中で目当ての人物を探すが、一向に見つからない。
同じクラスのブン太に所在を尋ねようとしたが運悪く彼も不在だった為、柳生は早々にその場を後にした。
一応生徒指導室にも立ち寄ったが、もちろん来ている筈も無く、
苦虫を噛み潰したような顔の真田が二年の違反者に説教を行っている姿が窓越しに見えるだけだった。
気まぐれな仁王が好む場所。自分が知っているのはあそこしか無い。
柳生は少しだけ迷ったが、踵を返し廊下の突き当たりにある階段を最上階まで上っていった。
立入禁止の文字が哀れになる程役に立っていない看板を大股で跨いで、僅かに錆び付いた扉をゆっくりと開ける。
危ないから修理すべきだ、と何度申請しても業者の入った気配や形跡は無く、鎖の解かれた鍵はそのままだった。
これはもう、半ば学校公認の解放地帯なのかもしれない。
そんな事を考えながら柳生は動かす度鈍い金属音を放つ扉を後ろ手に閉め、
風を避けるように歩いていく。突然視界が拓け、そのまばゆさに瞳が未だに明順応出来ずにいた。
手を翳し光を遮りながら、給水塔の大きな建築物を抜けてフェンスの辺りまで進み、不意にそこで立ち止まる。
ふわ、と突然視界に入ってきたのは透明に光る小さな球体。
その出所を目で追えば、フェンスに背中を預けた仁王が緑色の細長い容器を手に、のんびりとストローでシャボン玉を吹いている。

 「……仁王くん」

予想だにしない光景に思わず脱力しかけたが、懸命に身体を立て直し、柳生が咳払いと共に声を掛けた。
しかし名を呼ばれた本人は、視線をこちらに寄越すと、そのまま息を吹き込んで更に新たなしゃぼん玉を作成していく。
柳生の周りにふわふわと丸いものが纏わりついた。脆く薄いその表面は日の光によって様々な色に変化し、弾けては次々水泡になる。

 「何やってるんですかあなた」
 「C組の女子にもらったんじゃ。4限目理科の実験やったゆうて」

水溶液の実験。確か数日前自分達のクラスもやった覚えがあるが。
柳生は制服に付きそうな程近くに浮かぶ球体を手で追い払いながらため息を吐いた。

 「昼休み、生徒指導室に来るようにと云ったでしょう」

仁王は細いストローを口にくわえたまま、小首を傾げる。
おそらく、そうだっけ?のジェスチャーなのだろうが、今朝の出来事なのだから絶対に忘れている筈は無いのだ。
とぼけようとしても無駄ですよ。柳生は切って捨てるように云うと、フェンスの傍に立つ彼につかつかと近づく。

 「めんどいのー」
 「遅刻したあなたがいけないんですよ。今なら口頭での厳重注意で済みます」
 「これ全部吹いたら行くわ」
 「…一体何時間掛かると思ってるんですか」

仁王が手で揺らしている容器にはまだ半分ほどの液体が透けて見える。
柳生は呆れたように彼を見て、このままでは埒が明かない事を悟った。昼休みの残り時間はおよそ十分。
これは、多分時間切れまでのらりくらりとかわすつもりだ。自由を誰より好む彼にとって、規則や風紀は足枷でしかない。
そこまで嫌がる気持ちも、分からないでは無かったけれど。しかし柳生は自分の感情よりも与えられた責務を遂行する事を選んだ。
どちらにせよ、彼を捕まえられるのは自分しか居ないのだ。

 「来るおつもりが無いなら、気は進みませんが実力行使に切り替えさせて頂きます」

仁王がストローを容器に差し入れた瞬間を見計らって、空いた方の手を柳生がぐいと握り締めた。
今まで何処吹く風と彼の言葉を聞き流していた仁王も、これには流石に反応し顔を上げる。ひんやりと冷たい、乾いた掌。

 「何する気じゃ?」
 「云ったでしょう、実力行使に切り替えると。あなたをこのまま連れていきます」

そう云うと、柳生は握っていた仁王の手を自分の方へ引き寄せて踵を返すと元来た道へ歩き出す。
実力行使、という恐ろしげな言葉の割に握った手には余り力が入っておらず、解こうと思えば解いて逃げられそうだった。
柳生はこうしていつも見えない所で分かり難い逃げ場を用意してくれる。それを知っているから仁王も繋がれた指を解けない。
元よりこの生真面目な男がここに姿を現した時点で、逃げる気なんて失せていたのだけれど。
手を繋がれたままで階段を降り、廊下を歩く。
通行人が驚いた顔で彼らを見ては擦れ違い、時折テニス部の後輩達に出くわすと、部員達は呆気に取られたように二人に挨拶をした。
柳生の後ろをついて歩きながら、この奇妙な光景に仁王は我ながら可笑しくなってしまう。

 「このまま生指までエスコートしてくれるんか?柳生」

もう逃げる気無いから手を離せ、とは云わない。

 「僭越ながら。最後まで案内させて頂きますよ」

ですから手を離さないで下さいね、とは云わない。もう逃げないと知っているから。

言葉で本音を語らない分、互いの掌から伝わる気持ちはとても饒舌で、混ざり合う体温と共に心を揺らす。
規則も風紀も大嫌いだが、この男の束縛だけは心地好いから許そう。
柳生の清潔な襟足を眺めつつ、密かにそんな事を考えながら、仁王は片方の手でシャボン玉の容器をポケットに仕舞った。
石鹸の、淡い匂いが二人の間に微かに香った。

 

 

□END□

  

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行動指定>手を繋がれたら?