柳生比呂士は、世話好きな男である。



■生徒会よりお知らせ■
ノラ猫にエサを与えないでください。
東門付近で、ノラ猫をよく見かけます。校内での飼育は禁止ですので、注意を。



透き通るような青色の瞳。
ヒゲを細やかに動かして、校舎の影からこちらの様子を窺う。

 「にゃあお」

そのすぐ傍にしゃがみこんだ仁王はじっと差し向けられる青い両眸から目を逸らさず、
左手にパンの欠片をちらつかせ自分の方へおびき寄せた。我ながら余り似ているとは思えない声真似だったが、
猫は周囲を警戒しながらもたっぷりと時間を掛け、身を潜めつつ仁王の足許まで近寄ってくる。
白に三毛柄。背中にやや特徴のある模様は、一度見たら忘れられない。
地面にパンを置いてやると、小柄な猫はおそるおそる匂いを嗅ぎ、安全と判断するやいなや勢い良く鼻先を押し付けそれを食べ始めた。
目の前のエサに集中している時もしっかりと警戒は怠らない。横からそっと指先を伸ばせば、ビクリと小さな身体が震えた。

 「やはりあなたが犯人だったのですね」

しかし、突然背後から飛んできた声に今度は仁王がビクリと身体を震わせる。
猫は堂に入ったもので、反射的に顔を上げるもすぐにパンに噛みついて、既に食事を再開していた。
振り返ると、少し離れた場所に柳生が姿勢良く佇んでいる。
足音も気配も消して背後を取るという紳士らしからぬ行動をとった男はやれやれ、といった風にため息を吐くと、微かに首を傾げた。

 「生徒会報、見なかったんですか?野良猫にエサを与えるなと書いてあったでしょう」
 「んなもん見とらん」

でしょうね、と何故か確信的に頷いて柳生は肩を竦めゆっくりそのまま腕を組んだ。
仁王が再び視線を猫の方に向ければ、パンはもう欠片程も残っておらず、傍に座る猫は満足そうに口の周りを舌で何度も舐めている。

 「お前部活は?」

時間は既に4時半を過ぎていた。普段なら率先してコートの中に入っているであろう男が、
何故こんな所にいて更に自分を犯人扱いしているのだろうか。怪訝に思って背中を向けたまま訊ねると、

 「私は委員会です。その後生徒会室の方へ少し寄っていたので」

云いながら砂利を踏みしめる音がし、柳生がこちらに近づいてくる気配がした。
猫は瞬間背中を低くし微かに逃げの体勢を作ったが、しばらく考えた後、驚いた事に全身から警戒を解いてその場に座り直した。
俺が動いただけでも数メートルは飛び上がって逃げるくせに。仁王は釈然としなかったが、懲りずにちちち、と舌を鳴らし猫を呼ぶ。

 「片倉くん、困っていましたよ。エサをやる人が一向に減らないって」

すぐ傍で声がした。柳生が同じように隣へ、音も無くしゃがみこんだのだ。
仁王は自分の膝に片肘を乗せ器用に頬杖をつきながら、もう片方の手で猫と戯れ始める。
満腹なのか、毛繕いを中断した猫が仁王の指を視線だけで追いかけてきた。
風紀委員の柳生は役員でもないのに何故か頻繁に生徒会室へ出入りしている。
おそらく同じクラスで会長職に就いている片倉と仲が良いからだと、仁王は勝手にそう思っているのだが、
実際のところきちんとした真相は良く知らない。

 「あんな奴は困らせといたらええんじゃ」

ただ、仁王の個人的見解からしてみれば、片倉も、それに協力する柳生も、なんとなく気に入らなかった。
生徒会長なんてものに自ら立候補し就任するような人間は、面倒事が好きなタイプだと始めから決まっている。
好きで困っているのだから放っておけばいいのだ。

 「そんな身も蓋もない…とにかく、エサをあげるのは止めた方がいいです」

仁王は返事をしなかった。きっぱりと冷徹にそう云い放つ柳生に、少しだけ厭なものを感じたからだ。
おそらく柳生も、黙ってしまった彼の気持ちを内心察しているのだろう、
眼鏡のブリッジをカチャリと静かに押し上げると、そのまま隣に座る男の顔を見ずに続けた。

 「飼う気も無いのにその時ばかり優しくしても」

真剣に愛する気も無いのにその時ばかり優しくしても。

 「猫はそれに依存して、自分でエサを取る力を無くしてしまう。結果不幸になるだけです」

その優しさにすがって、いつ変わるかしれない気まぐれに怯えて、そしていつの間にか依存して。
それが嘘だと気づいた時にはもう遅い。取り返しなど、つかないのだ。
柳生は淡々と言葉を続けながら、この内容が一体猫の事なのかそれとも自分の事なのか分からなくなるような、
そんな漠然とした不安に陥った。厭だな、と思う。これではまるで。
意識が引き摺られそうになったその時、ニャア、と細く甲高い声がして、
仁王の傍に居た猫がゆるりと移動し、柳生の膝頭にすり、と頬ずりをした。

 「……」

二人の間に流れていた時間が、一瞬止まる。

 「柳生…」

名を呼ばれた男は、しかし猫に視線を張り付け固まったまま、何も云わない。
その様子を驚いた顔で茫然と見ていた仁王が、何かに思いあたったのか、
頬杖を顎から外し徐々に口角を引き上げるとそのまま、に、と悪戯っぽく笑う。

 「……もしかして、お前も犯人?」

このなつき様や信頼関係は絶対に昨日今日で築けるものではない。
一週間程前から通い始めた自分でさえここまでサービスされた事が無いのだ。
柳生を見て警戒を解いたのも、無邪気に彼に甘えるのも、それは。

 「…云っておきますが」

気持ちを切り替えるように、こほんとひとつ大きな咳払いをした後、
柳生が未だ膝の辺りに纏わりついている猫を呼び、自分の腕に引き寄せる。
半袖のカッターシャツから伸びる彼の二本の腕は、もう晩夏にさしかかろうとする時期だというのに、陽差しを厭う自分よりも幾分か白い。

 「私はその場限りの優しさでエサをあげていた訳ではありません」
 「やっぱあげとったんじゃろうが」

猫はさして抵抗もせず、柳生の腕の中にゆっくりと抱き込まれていく。
淀み無い手慣れた動作。もしかして柳生は動物を飼っているのだろうか。訊いた事が無いから知らないけれど。
急にふって湧いたそんな疑問を胸に秘めながら、隣に座る男のスッと通った鼻梁を眺めた。

 「片倉くんと相談して、この猫の飼い主を探そうという事になったんです」

その間の世話を、私が引き受けたんですよ。
と、囁く声音がどこか柔らかいのは、その腕の中に猫がいる所為だろうか。
骨張った指で白い額を優しく撫でながら、柳生は姿勢を正して立ち上がり、ふと思いついたように隣の仁王を見おろした。

 「仁王くん、飼い主に立候補しませんか?」
 「…無理。ねーちゃんと弟が動物アレルギーじゃけの。柳生は?」

反対に訊ねると、返事を求められた柳生はそうですね…と口の中で言葉を濁し、
胸に抱いたちいさな猫を見つめながら眼鏡の奥で僅かに苦笑した。

 「残念ですが…うちも無理ですね。面倒を見なければいけない猫が一匹、いますので」
 「ふうん」

やはり飼っているのか。犬ではなく猫というのが意外なような気もしたが、ああ成程と納得出来るような気もした。
しかし一匹も二匹もそう変わらないと思うが、それは生き物を飼った事のない人間の勝手な考えで、
そんな単純な問題では無いのかもしれない。そもそも、人の善すぎるこの男なら野良猫を目撃した時点で、
可能であればとうに自宅へ連れ帰っているだろう。痺れ始めた両脚に力を込めて、仁王が立ち上がる。
目線が隣の柳生と同じ高さになり、瞬間彼の腕の中ですっかり落ち着いている猫と目が合った。透き通る青い瞳。

 「早く、良い人が見つかるといいんですがね」

ぽつりと柳生が静かに呟く。指の腹で丁寧に喉を撫でられると、
猫は気持ち良さそうに瞳を細め、ちいさな額を胸元にすり寄せる。
仁王はその様子を見つめながら、自分でも良く理解らない奇妙な羨ましさを感じた。
無防備に猫に甘えられる柳生に対して。そして、柳生に愛を注がれる、猫に対して。

 

 

□END□

  

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行動指定>抱き締められたら?