柳生比呂士は、喰えない男である。
絡まる吐息と、時折はぜる密かな水音。
慣れないレンズの所為でぶれ、やたら薄ぼんやりとした視界には、自分の顔をした柳生が映る。
それはひどく奇妙な光景だったが、身体の奥から込み上げてくるそれは、嫌悪感ではなく逆に快い熱だった。
入れ替わりを兼ねた居残り練習を終え、二人がようやく戻ってきた部室に人気は既に無く、照明も落とされていた。
軽く舌打ちしながら手探りでスイッチを押した後、シャワーを浴びる為ロッカーへと直進し、
着替えを取り出そうとした仁王の顔の真横から、急に腕が伸びてくる。振り返ろうと上体を捻るより早く、肩を掴まれ反転させられた。
トン、と背中にあたるロッカーの冷たい感触。柳生に化けた仁王の正面には、仁王に化けた柳生が立っている。
目が覚めるような銀髪と、そこから覗く静謐な瞳。
仁王が提案したこの作戦を半ば無理矢理承諾させて間もない頃、普段とは似ても似つかない格好をした柳生は、
鏡に映る自分の姿に酷く戸惑っていたが、最近でははまんざらでもなくなってきたらしい。その証拠に。
「やぎゅう」
この男は、入れ替わりを愉しみ始めている。
自分の名前を呼んで、ロッカーに押し付けていた手をゆっくり移動させると、柳生はそのまま仁王の身体を抱き締めた。
耳朶や襟足にあたる髪がくすぐったい。という事は、普段そういった事を柳生も考えているのだろうか。
仁王は僅かに肩を竦めたが、特に抵抗もせずされるがままでいた。
「キスしたい」
変装すると、どうやら柳生の紳士規制は大幅に緩くなるらしい、という事を仁王はこれまでの経験から知った。
鎖のように頑強な理性が日常的に押さえ付けている本能。それが仁王の姿を借りるという非日常な状況に放り込まれる事によって、
柳生の中でゆっくりと実践可能なものに顕現されていく。しかしここまで唐突且つ大胆に誘われたのは、今日が初めてだったけれど。
「今ですか?私、シャワーを浴びたいんですけど」
腕の中で、柳生の堅い口調を真似て意地悪くそう云ってやると、
対する張本人は首を振っていやだ。と小さく呟いた。「柳生比呂士」でいる時よりも感情がストレートで分かりやすい。
ずっとこうだったらいいのに。そんな事を考えながら、仁王は顔をそっとずらすと、柳生に視線を合わせる。
至近距離で見るとそれはやはり端正で利口そうな柳生比呂士の顔立ちをしていて、仁王雅治では無い。
「聞き分けのない人は嫌いです」
「…仁王くんだって普段、聞き分けがないじゃないですか」
別の顔をしているのに元の口調に戻って喋るのはルール違反だ。
眼鏡越し、仁王が諫めるように軽く睨んでやると、相手は悪戯を咎められた子どものようにそっと舌を出した。
こんな仕種など自分は一度だってした事がないというのに。誤った認識をされていると思いつつ、
仁王の柳生観もきっと似たようなものだと予想出来たので、何も云わず、やれやれと少し大袈裟に肩を竦めてみせた。
「そうではなくて、…“聞き分けないじゃろ”」
ですかね?と口の端で小さく呟き、彼独特の癖のある口調を真似ながら、
このどさくさに紛れるようにして柳生はそっと仁王の額に自分のそれを押し付けた。
練習の後だというのに既に汗の引いている柳生の額は、ひんやりと冷たい。
それでも互いの体温が知り得てしまう程の至近距離に、ぼんやりと、目が眩みそうになる。
この駆け引きにも似た極上に濃密な状況下で、一体どちらが先に仕掛けたのかは、分からない。
気がつけば唇は重なっていて、吐息はあっさりと熱を帯び、二人の間で容易く溶けた。
キスをしながら仁王は掛けている眼鏡が邪魔だと思ったが、外すのも面倒だったので適度に角度を変えてやり過ごす。
きっとその方が柳生も好きだろう。ガタン、と更に背中をロッカーに押し付けられ、
僅かに崩れ掛けた体勢のまま仁王は片方の腕を柳生の肩に回し唇を緩慢に離す。ピチャリと唾液が舌の上で跳ねた。
まるでわざと、余韻を引き摺り扇情するように。
「…私が、あなたの格好をすると興奮する?」
じっとこちらの顔を見つめながら、柳生は投げ掛けられた言葉の返答を探す。
中断された事が疑問だったのか不満だったのか、銀の前髪から見え隠れする、
僅かに細められた両眸はしっとりと濡れた熱をはらみ、理知的な冷静さや穏やかさとはかけ離れたものだった。
「する。すごい好き」
吐息で囁き、そのまま唇を塞がれる。一瞬息が出来なくなって背中の辺りがひどくゾクゾクした。
作戦に引き入れた仁王でさえ、これがあの謙虚で慎み深い紳士かと疑う程今の柳生は積極性と行動力を兼ね備えている。
むしろ、日常生活を送っている「柳生」の姿が偽者なのではないかと思えるくらいに。
同じ男で、同じ部のチームメイトで。柳生と自分を繋ぐ共通点なんてそれくらいしか無いと思っていたのに、
幸か不幸かこんな奇妙な部分で互いの嗜好が重なり合ってしまった。
立てた襟は既に折れ、きっちりと分けた筈の前髪も乱れてしまっている。
それでも自分はちゃんと柳生の中で「柳生」として機能しているらしい。
キスをしながら仁王は口許を微かに歪め、ひっそりと笑う。
「私も、そんなあなたが大好きですよ」
どちらに向けて、何に対しての愛の告白なのか、こんな倒錯した世界では分からない。
何が嘘で、何が真実なのかもすぐに見失ってしまうけれど。それくらいの距離の方が、
お互い本音を隠した不真面目なこの関係にはちょうどいいと、胸の奥に拡がる快い熱を感じながらそう思った。
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行動指定>キスされたら?