柳生比呂士は、脆さを秘めた男である。
『飼っていた猫が、死んだんです』
暖かな蒸気を放出し、ストーブの上に置かれた薬鑵の蓋がカタカタと小刻みに震える。
『もう高齢でしたし、覚悟はしていたのですが』
注ぎ口が吐き出す白い湯気。その所為で霞んでしまった視界の向こうにある診察室からは、
閉めてあっても扉越しに穏やかな笑い声が絶えず漏れていた。良く磨かれて艶のある重厚な焦茶の床は、
スリッパで歩くと微かに軋んだ音を鳴らしながら患者を迎え入れる。けして新しくはなかったが、
その分年季が入り丁寧に手入れの行き届いた清潔な建物内に、邪魔にならない程度の大きさで流れているクラシック音楽と、
その穏やかな誘惑に勝てずうつらうつらと待ち合いのソファで居眠りをしている数人の老人達。
柳生医院はいつ来ても、時間の流れがゆっくりだ。
そう思いながら、仁王は待ち合い席から少し離れた場所にぽつんと置かれている隅のソファに背を預け、
一人静かにあくびを噛み殺した。
『老衰で、苦しまずに逝った事だけが救いでしたね』
その話を聞いたのは、冬休みに入る二日前の事だった。
偶然下校時間が重なった帰り道で、訥々とそう語り終えた後柳生はすみません、と力無く詫びた。
こんな話を、聞かせてしまって。そう呟く柳生の瞳はどこか沈鬱で痛々しく、深い闇が溶け込んでいるように思えた。
仁王は隣を歩きながらしばらくの間無言で色々考えていたが、結局一言、構わんよ。とだけ返した。
その時本当は頭の片隅で、以前柳から、比呂士が少し塞いでいるように思うが何か知らないか、と訊ねられていた事を思い出していたのだ。
しかし仁王は柳に対し、さあ、と首を横に振るしかなかった。柳の洞察力が自分よりも優れていた、といえばそれまでの事かもしれない。
けれど実際、柳生はそんな様子を自分の前ではおくびにも出していなかったと仁王は今でも思う。
だから、何も知らなかった。気づかなかった。
柳生は、教室や廊下で他愛もない話をした時も、チームメイトと騒いでいた時もその間ずっと、
愛しいものを亡くす恐怖を抱え、喪った哀しみに耐えていたのだろうか。独りで、ずっと。
「仁王くーん。仁王雅治くーん」
急に飛び込んできた女性看護師の柔らかな声に仁王は我に返り、立ち上がって受付に赴いた。
窓口で代金を払っていると奥の方にある扉が開いて、そこからひょいと白衣の男性が顔を覗かせる。
「雅治くん、もうすぐ到着すると思うのであと少しだけ待っていて下さい」
そう云うと、白衣の医師、柳生の父親は眼鏡の奥で穏やかに相好を崩し、仁王に向けて片手を振って再び奥へと姿を消した。
息子は三年経っても仁王くん呼びなのに、父親は一年も経たない内にいつの間にか雅治くん呼びになっていた。
いつ来ても人好きのする笑顔を浮かべ、懇切丁寧に話を聞いてくれるこの医者を仁王は好ましく思っている。
本日来院した理由を診察室で話すと、彼は大いに頷き惜しみ無く協力をしてくれた。
この辺りの寛大さをどうして息子が受け継がなかったのだろうと不思議に思いつつ、
仁王は戻ってきた診察券を財布の中に仕舞うと、人の疎らな待ち合い席を横切り元来た廊下をたどって先程まで座っていたソファに再び腰掛けた。
『そろそろ塾の講習から帰ってくる時間ですし、私から連絡を入れておきますよ』
骨張った指で無造作に聴診器を首へ引っ掛けながらそう云うと、
医者はまた夕食を御一緒しましょう。と正面の丸椅子に座る仁王に優しく微笑んだ。
冬休みに入ったというのに、柳生は毎日朝から塾の冬期講習に通っているらしい。
部活を引退し、手持ち無沙汰になる時間を勉学で埋めようという事なのだろう。
仁王はというと、空いた時間はぽっかりとそのままで、埋める事も遊ぶ事も出来ずにただぼんやりと日々を過ごしている。
天井を仰いで息をすれば、灯油と消毒液の混ざった匂いが胸に染みた。
『酷い顔だったでしょう。あの子が一番可愛がっていたから』
二、三日食事も出来なくてね、と規則的な速度でカルテに文字を書き記しながら医者は静かに続ける。
一定の落ち着いたトーンを保って声にする喋り方は、柳生に似ている、と仁王は聴きながら思った。
この場合、柳生が父親に似ているのか。
『だけど彼女は、あの子と同じ十五年を生きた。猫にしてみればそれは凄い事なんです』
だからね、とそこで一旦言葉を切って万年筆をカタリと机上に置くと、
医者は椅子を少しだけずらし書き終えたカルテを、傍に控えていた看護師に渡した。
『比呂士は幸せ者ですよ』
柳生家で飼われていた猫は、聞いてみれば夏の終わりから調子を崩していたらしい。
それは、校内に現れ出した野良猫の世話を柳生が始めた頃だ。
あれから無事に、野良猫は飼い主を申し出た高等部の教師に貰われていったけれど。
痩せた猫を抱きながら、彼はあの時何を思っていたのだろうか。仁王は天井を見上げたままそこまで考え、そしてゆるりと首を振った。
今となってはもう知る由も無いし、過去は過去だ。
自動扉の開く気配。少しして、一定の速度で徐々にこちらに近づいてくるスリッパ越しの足音を仁王の耳が捉える。
視線をそちらに向けると、コート姿の柳生が立っていた。軽く息を切らし、マフラーを巻いたままで。
一旦自宅に寄る事もせず塾からそのまま離れであるこちらの建物に来たらしい。
「おかえり」
「…仁王くん、どうして…」
弾んだ息を整えながら何とかそこまで声にしたが、
その姿を見兼ねた仁王がちょいちょいと片手で自分の隣を指差すので、柳生は鞄を床に置き、
マフラーを外しコートを脱ぐと彼の隣に腰掛けた。三人掛けのソファは、男二人で座ると少しだけ手狭な感じがする。
仁王がくん、と鼻をならした。柳生からは、きんと張り詰めた外の匂いがした。
塾が終わり、携帯電話の電源を入れた途端表示された父親からのメール。
珍しい患者さんが君をお待ちかねですよ、といまいち要領を得ない内容に首を捻らせながら、
とにかく待たせてはいけないと急いで帰ってきたのだが。柳生は未だ自分が呼ばれた理由が良く分かっていない様子で仁王を見る。
確かに珍しい患者、ではあった。柳生の微かに訝しみを含んだ視線に気づいたのか、仁王が口を開く。
「予防接種受けにきた」
「…あぁ、なるほど」
今年のインフルエンザはかなり手強いらしいですね、と頷いて続けながら、
柳生は後で手洗いとうがいを忘れないよう心に留めておく。同時に仁王にも自分で出来る予防法を薦めると、
彼はそうじゃのーと何故か緩い笑いを浮かべて寄越した。
「それでいらしてたんですね」
「あと、軽い健康診断をな」
「え?」
予期せぬ言葉に柳生が反射的に訊き返す。
健康診断は学校でも行っている為、健康な人間であれば毎年一度で済んでしまう。
しかしわざわざ個人で受けに来た、という事は何か体調に異変があったのだろうか。
咄嗟に幸村の時の事を思い出し、柳生の身体が微かな緊張感を帯びる。
「本格的なもんじゃのうて、親父さんにちょおと診てもうただけじゃ」
しかし、固い表情で見つめてくる相手に対し、仁王は片手をひらひらと左右に振りながらいつものように軽い口調でそう云った。
彼の行動に納得のいかない柳生がなおも食い下がる。
「…ですが、何か気になる事があったから診察してもらったのでしょう?」
「まあな。でも結果は見事な健康体。お前の親父さんの御墨付」
聞けば聞く程ますます訳が分からない。
柳生が眉を寄せ、戸惑いの感情を瞳に滲ませたままこちらをじっと見ている。
一緒に帰ったあの時より、頬の周りが少し痩せたような気がした。仁王はそんな柳生の視線を外すようにふ、と前を向く。
「じゃけ、俺は死なんぞ。柳生」
目の前に置かれている薬鑵からは変わらず白い湯気が立ち上ぼり、周囲を柔らかく暖めている。
「お前より先には死なん」
膝の上に折り畳んで置かれていたコート。そこに乗せていた柳生の両手が、静かに震えた。
冬休みに入る直前自分を襲った状況と、同時に下校時の出来事が記憶から鮮明に蘇り、彼の中でゆっくりと繋がっていく。
そして仁王の行動と言動が、この時しっかりと意味を持った。何か云おうと口を開きかけ、しかし喉の奥に息が詰まって上手く声が出せない。
取り繕うように俯いて、僅かにずれた眼鏡を押し上げようとしたが、出来なかった。
「……無理ですよ、あなたには」
愛しいものに先立たれる痛みに、きっとこの人は耐えられない。
「なんでじゃ、俺が折角ここまで覚悟したゆうのに」
云った傍からいきなり否定をされた事に、納得がいかないのだろう、
不満そうな仁王の声がすぐ傍で聴こえたが、柳生はフレームを押さえたまま、未だ顔を上げられなかった。
「それでは、その覚悟だけ有り難く頂戴しておきます」
この人を独りで置いて逝くなんて、そんな事は絶対に出来ない。
潤みそうになる声を必死で隠して、大きく息を吸った柳生がようやくゆっくりと顔を上げる。
コートに乗せていた手は知らず力が込められ無意識に拳を作っていた。息を吐きながらそれを解く。
柳生はそのまま右手を隣に座る男の左手にぽん、と乗せた。相手の予期せぬ行動に驚いたのか、
視線だけを動かしこちらを窺う仁王に柳生は困ったように微笑んで、覚悟まで貰っておいて欲張りなんですが、と控えめな前置きをする。
「我儘を承知で云うと、もう少しだけこうしていてくれると、嬉しいです」
その言葉を聞いた仁王は、空いている方の指で後ろ髪をゆるゆると弄りながら、
お前はもっと欲張ってもバチは当たらんぞ。と呆れたように呟いた。
愛しいものが増えるたび、手離す恐怖に脅かされる。
どれだけ願ってもそれは有限で、いつかきっとなくしてしまう。
それでも、柳生は皮膚越しに伝わるこの温もりを求めずにはいられない。
悲しみの淵に立ち尽くしていた自分を救ってくれた彼と、引き上げてくれたその手を。
重ねられた体温と鼓動に、有限を越えた何かを信じてみたくなる。
例えそこから温度が失われても。冷たくかたくなる日が来ても。
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