から「それ」が伝われば、彼は理解ってくれるだろうか。

私が彼をどれだけ愛しているのかを。

そして私は救われるのだろうか。

彼が私の想いを理解するに至ったとして。



部室の扉が乱暴に開く音がする。続いて、踵を少し引き摺るような特徴のある足音。
歩くという基本的動作すら面倒臭い、と不遜に主張しているような。

 「誰か救急箱ーガット切れて俺の右指流血事件発生ー」

そんな癖のある歩き方をする人物、仁王が少しも面白く無さそうにタラタラと喋りながら部屋に入ってくる。

 「救急箱なら、つい今しがたここを出たブン太くんが持っていきましたよ」

事務的にそう述べる柳生は、
放課後開かれていた委員会の会議が先程終り、急いで部室に戻ってユニフォームに着替えている最中だった。

 「げ。入れ違いかよ」
 「そういう事になります」

上着の襟部分を立て終ると、ロッカーの上部へ無造作に置いてあった眼鏡を、掛ける。
そのまま振り返れば、右手の中指からだらだらと細い血を流す仁王が憮然とした表情で佇んでいた。

 「柳生、痛え」
 「指先は末端神経が伸びていますから痛みを感じやすいんです」

怪我をしていない左手だけで、部室の真ん中に置いてある平机にひょいと腰掛ける。

 「痛え」
 「そんな動きをするからです」

自分の右手をひらひら振る仁王。興味深そうに、そこから伝う自分の血を眺めている。
歩み寄って、手を掴んで、止めさせた。

 「傷口を広げますから、止めて下さい」
 「柳生」

仁王の血が、掴んだ柳生の手を細く汚していく。

 「何ですか?」

赤い血。
掌。
彼の手の。
体温。

 「消毒、してくんない?」

耳許を掠めた仁王のその言葉は、柳生を一時思考停止状態に至らしめた。
ゆる、とレンズ越しに視線を探る。
仁王はこちらを見つめたまま、悪戯で残忍な笑みを浮かべている。

 「出来るだろ?」

相手に有無を云わせぬ威力を秘めた言葉。

出来ない訳なんか無い。けれど。

無言のまま、柳生は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
彼の正面に備えられた平机に腰を掛けている仁王は、脚をぶらつかせながら、
右手を、未だ柳生に掴まれている右手の指先を、そっと開いてやる。

柳生が、そこを舐め易いように。

 「…」

血濡れた指を差し出され、一瞬だけ柳生の身体が躊躇するように硬直したが、
しかし俯いて深く溜め息を吐くと、その指に、右手に自分の手を添わせ、ゆるゆると顔を近付けていった。

鼻に抜ける、鉄の臭い。

緩慢に。
時間を掛けて。
傷口に、優しく舌を押し付ける。

その生温かい感触に、仁王の瞳が僅かに細められたが、柳生にはそれが見えない。
柳生には、仁王の手しか見えていない。
血を流す傷付いた中指の、患部を丹念に唾液を絡ませた舌でなぞって、消毒、殺菌していく。
そうして舌は、伝った血で汚れてしまった中指の第一、第二関節に到達する。

 「…、」
 「ソコも綺麗にしてくれんの?」

くぐもった笑い声と共にそんな事を云う仁王。けれどけして止めろとは云わなかった。
睫毛を伏せ、丁寧にただ一心に、仁王の手を舐める。
時折生じる濡れた音が、この部室にとてもふさわしくない。
などと、怖いくらい落ち着いている頭で考えていた。

いつもそうだ。
自分の中には冷静な自分というものが、確実に存在しているというのに。

彼が何かを。
云う度、云われる度。
冷静な自分が破綻する。全てを擲ってもいいとすら思う。

なにもかんがえられなくなる。

 「…柳生、えらく熱心に消毒してくれてんじゃん?」

彼が、空いた左手で髪を梳く。まるで戯れの、そんな仕草にすら胸が熱くなる。

ピチャ、
透明な水滴が爆ぜる音。
唐突に。
仁王の中指が柳生の口内に侵入したのだ。

 「……っん…、」

途端に眉を顰める柳生の顔を眺め、仁王は満足そうに唇を歪め笑った。
更にもう一本、人差し指を加えていく。

 「こっちも」

口内で混じり合う鉄の血の、仁王の味。そして自分の唾液。
飲み込みきれずに口角の端から薄く朱の混じった液体が伝った。
ぐり、と仁王は楽しそうに二本の指を柳生の濡れた口の中で動かす。その度に柳生は目を瞑って、その不快感に耐える。

 「なーめーて」

残酷に優しい声音で囁いて、柳生の髪を、ゆるりと撫でた。

 「…っ、は、」

舌を、絡める。
唾液が纏わりつく。
悪戯に歯列をなぞる人差し指は、甘く噛んで牽制した。
指が口内をまさぐる所為で、呼吸すらままならなくなった。
自分の、不規則に吐く息で曇っていく眼鏡。
霞掛かったレンズ越しに仁王を見れば、彼はただ、笑っていた。

愉しいから?
むしろ嫌悪感で?
憐憫の情かもしれない。
同情の、憐れみのそれかもしれない。

そんな事など、どうでも良かった。
手が、離れなければいいと、それだけ願った。
(…けして叶わぬ願いだとしても。)
酸素不足で眩暈を起こし掛けている無様な脳の片隅で。
彼の指を銜えながら、それだけ、願った。



…バタァン!

 「ちょーすんませーんまた寝過ごしましたあつか美化委員会のヤツ等誰も起こしてくんなくて会議室へ放置っスよ?ありえねー…」

威勢良く開かれた扉。
と共にズカズカと此方に近づいてくる盛大に乱暴な足音。
髪の毛を掻きながら愚痴を零し歩いて来た赤也の、未だ眠くて閉じそうな瞳に映った、先輩二名の姿。
がしがしと掻いていた指が一旦停止。
その後脱力したようにだらりと落ちる。

 「えーととりあえず可愛い後輩にそんなイタい光景見せんのもありえないと思いまっす」

先輩方ぁー。
と、脱力しきって訴える赤也に向けて、仁王が首だけで軽く振り返り、ちょいちょいと柳生を指差す。

 「ちいと消毒してもらってたんだよ」

なー。と仁王。
こくり。と柳生。
直後、する、とようやく口内から仁王の指が出ていく。
そんな二人と距離を取り、嫌そうに眺めながら赤也が呟いた。

 「俺は断じて認めねっすよーあんなエロティック消毒」
 「エロだって柳生」
 「それは心外ですね」
 「エロに失礼だぞ赤也」


顎に伝った唾液をハンカチで拭きながら一言添える柳生に、赤也の顔はまるで不可解なモノでも見るような妙な表情になっていった。

 「ていうか先輩方はいろんなトコがいろんな方向に駄目だと思うんで」

一般人の俺には近付かないで下さいね〜
云い残して、さっさと自分のロッカーへ向かっていく。
残された二人は、ヤケクソのようにきびきびと着替える後輩の背中を茫洋と眺めている。

 「後輩にダメ出しされてしまった」
 「何がいけなかったんでしょうか」
 「ていうか柳生、俺の指べとべと」
 「申し訳ありません」

きっとこの辺りが間違っているのだろう。
駄目なんだろうな、と柳生は漠然と思う。

それでも。
伝わればいいと思ったのだ。

隣で笑う、彼の顔。

この想いが、舌から指へ。



そして傷付いた手に。





■了■

 

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この話で一番可哀想な人は赤也くんです…合掌。
手を舐める、という行為の持つエロティックな感じが出ていればいいな、と。