視線



貴方だけしか、見えないのじゃなくて。



 「柳生〜」

後方からやる気の無い、声がする。

 「何ですか?」

僅かに皺のついてしまったシャツに少しだけ苛立ちを覚えながら、返事をする。

 「お前ってさー、しょっちゅう俺の事見てるだろ」

先に制服へと着替え終った仁王が、
後輩に買いに行かせたのだろうプッチンプリン(BIGの方)を掻き回し、そんな事を、云う。

 「…否定はしません」

ギ、
少しだけ錆び付いたロッカーの開閉時に立てる音が気に障るな、と思い柳生は答えた。

 「んじゃ今後一切、俺の事見ないで」
 「…?」

小さなスプーンでプリンを一片掬い上げ、雑誌に目を落とす仁王の手付きは危うい。
柔らかな卵色のそれが頼りなげにふるふると揺れている。

 「…何故ですか?」
 「何故でも。理由聞きてえの?」
 「出来うる、限り」

立ち尽くす柳生に視線を合わせる事無く、仁王がサラリと告げた。

 「お前の視線、ウザいから」

そのままぱくり。とプリンを口に放り込み、うめー、と幸せそうな声を上げる。
部室での飲食は禁止されていると咎めようとした口は、唇は震えて、上手く言葉を紡ぐ事は出来なかった。

 「練習中とかはー別に気になんねんだけどーそれ以外」

補足。という風に、仁王が透明のスプーンを持った手をひょい、と掲げ、くるりと回す。

 「それ以外で、俺の事見ないでね。…りょーかい?」

首を傾げれば、ふわりと後ろで彼が結んだ一房の髪の毛が、揺れる。
薄く銀色に光るそれを見つめながら、

 「はい。」

簡潔に、それだけを答えた。



こういう事は、初めてでは無い。

口を聞かないで。
触らないで。
こちらを、見ないで。

仁王は、思いつきだけでそう命じる。

理由は単に、面白いから。だ。
制限を掛けられ、それでも自分だけを一途に想う自分の存在が。
無表情の顔の裏に隠された、必死に藻掻く浅ましい感情を、知っているから。

それが面白い。

彼も自分に負けず劣らず歪んでいる。柳生は人知れずそんな事を思う。



しかし、気が付けば、目に入ってくるのだ。

彼の存在が。

それを意識的に排除する。自分の視界から、抹消する。
最初はそれ程苦では無かった。
云われた事を淡々と行うのは楽だし、得意な方だ。

三日目で、行動と感情にズレが生じた。
違和感。

四日目で、感情が追い付かなくなった。
焦燥感。

五日目で、精神的負荷が大きくなっている事に気付いた。
虚無感。

部活中と、彼の声だけが、唯一の救いになった。

そして。
七日目で、



 「…」

ガラガラ、…ガラ
 
 「やーぎゅーう」

パタン。

 「…」

少しだけ、上履きの靴底を引き摺る特徴のある足音。

放課後。
誰も居なくなった教室で、柳生は自分の席に座ったまま動かない。
落ちていく太陽の、濃蜜のような橙色が、教室内をゆっくりと侵食していく。

眩しさに目を細めながら、

 「なんで部活来ねーの」

声をかけた。

窓から差し込む夕日のせいで逆光になった柳生の姿は、微動だにしない。

 「貴方がコートに入った後、行こうと思っていました」

柳生の形をした黒い物体から、声が発せられる。
夕暮時ってなんかシュール。こういう時間帯、逢魔が刻っていうんだっけか。
仁王がどうでもいい事に思考を遊ばせながら一歩、また一歩、近付いていく。

 「なんで」
 「貴方に逢いたくないからです」
 「なんで」
 「貴方に逢いたくないからです」

会話がループしている。柳生が静かに壊れている。
背筋を伸ばし、姿勢正しく椅子に座って俯いているままの彼を、斜め上から見下ろした。
ここまで近付くと、黒い物体だった柳生が、急に色をおびる。すっと伸びた白い鼻筋がやけに目立った。

 「…」

静かに手を上げ、座ったまま動かない男の頬へ、無遠慮に触れる。
瞬間、びくり、と小刻みに肩が揺れたが、気にせず頬から、眼鏡の弦を伝って、耳許に。
指を這わせて、ゆっくりと顔を上げさせていった。

 「止めて下さい」
 「なんで」

硬質な楕円眼鏡の奥、伏せられた睫毛が、静かに震えている。

 「見るな、と云ったじゃないですか」
 「うん、見ないで」
 「無理です」

柳生が、耐えかねたようにそっと、瞳を開く。
間近で受ける、久しぶりの視線に背筋をぞくっと「何か」が滑り落ちていった。
仁王が嬉しそうに、笑う。

 「見た」
 「…無理だと、云いました」

瞬きすらせず、柳生は仁王を見つめ続ける。
瞳の奥に潜む感情の箍が外れ、その眼差しは緩やかに常軌を逸している。

 「無理、だと、」
 「…あー、やっぱお前の視線、」

ウザい。

楽しそうにそう告げて、仁王が目の前に座る男のネクタイを解いて、抜いた。

シュルリ。
シャツを滑って生じる乾いた音。
柳生は彼のその一連の動作を見ている。視線を外す事など既に出来なくなっていた。

 「見んな、つったのに見ちゃった柳生ちゃんにはー」

突然視界がブレて、頬に熱い痛みが走る。
仁王が眼鏡を奪ったのだ。

 「お仕置き。」

朦朧とした視界の中、
それでも目の前の男が口許に、酷薄な笑顔を浮かべるのが、理解った。



シュ、ル、
瞼にひんやりとした布の感触。
柳生のネクタイを使用して、楽しげに、彼に目隠しを施していく。

 「柳生のー、」
 「…」

仁王の指先が目尻の辺りを伝う。

 「柳生の視線て、殺されそうで嫌」

仁王の指先が頬から唇に落ちる。

 「本気で俺の事しか見えてないっぽくて」

怖いよ?

耳許で、囁いた。
目隠しをされた柳生は少しだけ息を詰めた後、口を開く。

 「私は、」

私は。

 「貴方だけしか、見えないのじゃなくて」

ネクタイの布が作り出すぬるい暗闇の中に、捕われながら。

 「貴方だけしか見ないのです」

これまでも。
これからも。

フ、と肌に掛かる温かな吐息。
どうやら仁王が、至近距離で笑っているらしい。
視覚を遮蔽されると逆に他の器官が冴え渡るのだな、と、そんな事を思った。

 「柳生」
 「はい」
 「キモい」
 「ですね」

けれどこれしか知らないのだ。
こういう方法でしか、伝えられないのだ。

気持ち悪いというのなら本気で拒絶して欲しいのに。

それなのに。
布越しに伝わる、しっとりとした唇の感触。
戯れに施される、その口づけに、心は掻き乱れ続ける。

突き放されたかと思えば、抱き締められる。
悪口を浴びせられた後に、甘い言葉で包まれる。
それらの、仁王によってもたらされる相反したそれらの行為が、自分にとっては全てなのだ。

柳生は視界を奪われた瞳を閉じたまま、じっとその残酷な口づけが終わるのを待つ。

だから。



もう、貴方だけしか。





■了■

 

- - - - - - - - - -

ネクタイ目隠しプレイが書きたくて。
それにしても柳生が盲信的過ぎてちょっと怖いですね。

 

「あなただけしか〜」/@あるすとろめりあ